汚れた髪

うつ病といっても要するに病気なのでふつうに病気として対処すればたいていの場合簡単に治る。
軽いうちに適切に応対すれば、あっさり治るがこじらせると、えらいことになって、死んでしまったりするひとがでてくるのも、病気だから、あたりまえなのである。
むかしは医者もホイホイと処方薬をだしていたが、このごろでは副作用がおおきい薬が多いのがわかってきたので、やや慎重にすることにした。
基本は、まさしく風邪と同じでバランスのとれた食事と健康的な生活習慣で、ひらたくゆってしまうと、アホらしい感じもするが早寝早起きをするのがよいという。

社会的な理由もあるに違いなくて、わしが生まれついて育った社会は、人口ごとうつ病であるかのごとき社会で、子供のときから「誰それはデプレッションだから」というようなことをよく聞いた。
あんまりひとに向かっていうことでもないが、わしの大好きな大叔母は、やはりうつ病が持病で、ロンドンの街中で突然くるまを止めて泣き出したりするので、ガキわしは、なにしろガキというのは同時にバカであるということなので、どうしたらよいか判らなくて、じっと大叔母をみつめていたりした。
いかにガキでバカであるとゆっても、そういうときに「ダイジョーブですか?」というようなマヌケな質問をするほどのバカではなかったので、そのまま30分くらい大叔母が泣いているのをみつめていた記憶がある。

あるいは高校生のときに幼なじみの女の子とリージェントストリートで偶然でくわしたことがあったが、いつも身なりがばっちし決まってるひとであるのに、そのひとの「目がさめるような」という表現がぴったりの金髪が少し汚れているような気がした。
やあ、元気?
この頃、あんまり見なかったね、というようなありきたりの挨拶を交わしてから、では、とゆって歩み去ろうとすると、ガメはわたしを軽蔑しているでしょうね、という。
びっくりして、そんなことあるわけない、 なんで、そんなことを訊こうと思ったのか判らないが、そんなことは金輪際ない。軽蔑なんか、してるわけないじゃないか。心からいうが、きみは、わしのおおむかしからの友達なんだから。

相手をほめるべきとき、というか、敬意をもっている相手には、はっきりと言葉をつくして述べることにしているので、わしはふだん、そのひとに対してもっている印象をはっきり詳しく言ったのをおぼえている。

相手はにっこり笑ったが、そのあとに、すっ、と目が暗くなったようにみえた。
わしは相変わらず、そのひとの髪の毛が少し汚れているような気がしていた。

そのひとが自殺したのを聞いたのは次の週のことだった。

わし自身にはうつ病の傾向はないよーだ。
風邪をひきやすい体質のひともいるし、なかなか風邪をひかない体質の人間もいて、どうやら(もっと年をとらないと、うつ病のようなものはわからないが)わしは後者に属しているよーです。
まず第一に体力が旺盛だということがあるだろうし、他人の目を気にする習慣がない、という教育に起因する「考えの習慣」ということもあるかもしれない。
遺伝的な要素が強いとすれば、家系図を見渡すだけでもうつ病で自殺したりしたひともごろごろいるので、病気になりやすい体質のはずだが、うつ病も躁病もいまのところは縁がない。病気もしないので、ただただ健康でばかばかしい感じがするが、ほんとうはばかばかしい、などとバチアタリなことを言ってはいけなくて神様に感謝しなければいけないのでしょう。

モニはチョーまじめなので、ときどきゆーうつな気分になるよーだ。
自分にも、もっと出来る事があるのではないか、とか、自分にあんまり価値がないのではないか、とか、わしに言うことがあるが、そーゆーときは、やや抑鬱的な気分なのであると思われる。
特別なことを言ったりやったりはしないが、モニが憂鬱そうにみえるときには、海にいくべ、とか温泉に行くべ、外でお昼ご飯たべるべ、とゆって、問答無用で連れ出して遊びにいく。
将来はどうなるかわからないが、いまは、それで、すぐ気分が変化するよーです。

日本語の世界では、「うつ病」というのが、奇妙に特別な感じで言われるので、へえ、と思ったことがあった。
英語世界では、うつ病というのは、チョーありふれた病気なので、「精神病」などとあらためてゆわれると、なんだか違う病気の話をしているよーな気がする。
あまつさえ、風邪のひきかけくらいの鬱状態の若い社員に「がんばらなきゃだめじゃないか」と上司がゆった、というような話を聞くと、ずるっこけてしまうが、風邪をひいた人間にジョギングいってなおしてこい、と諭すような、そういうヘンな考えも、時間が経っていけば社会からは淘汰されてゆくに違いない。

ニュージーランドのような社会は、もともとがイギリスのまじめな労働階級の人間が「こういう生活をしたい」と思った夢の煮こごりのようなところがあると思う。
マジメに仕事をしさえすれば、ロンドンでは夢でしかない一戸建ての広い庭がある家が買える。クルマを2台もって、子供がふたりか3人いる笑い声が絶えない生活がつくれる。ニュージーランドという国のおおもとになっている考えは、そういう労働者階級の人間が必死に願った「幸福」の現実化であって、だから「支配層」というものを生理的に嫌う。
幸福の定義もだから単純で、家やクルマや収入というような現実に目でみて一目瞭然なものに限定されている、とゆってもよいくらいである。

欧州人や日本人はスズカケの木のごとく屈折した長い歴史をもっているので、なかなかそう簡単に幸福になれない、というひとも多くて不便であるとおもう。
歴史が長い、ということは、これこれしかじかの歴史があるから、なかなかそう簡単に変化するわけにはいかないのだ、という変化しないことの陳弁につながるが、それは同時に変化を怠るlazinessにも簡単につながる。

遠くからみていると、この頃の日本は、社会ごとうつ病に罹ったようにみえることがある。他国人から、ちょっと「こうしなければいけないんちゃうか」と感想を述べられると過剰な情緒的反応が起こって、話を聞いていると、予想外にも「自分達が非難されている」と感じているのがわかって、意見を述べたほうをびっくりさせたり、「このあとの金融政策をどうするつもりか」と聞かれただけで恐慌的な反応を示したりするのは、個人であれば、初期のうつ病であるとみなせる。

耳をおおって他人の言う事をいっさい聞かずに、自分の信じたいことだけを信じて、現実そのものを自分が信じたいものの姿に変えて投射するようになるまで、もうすぐだという感じがすることすらある。

世界から切り離されていると感じるとき、人間はうつ病に罹りやすいが、日本社会そのものが集団的なうつ病に罹っているとすれば、その責任はまず第一に、長い間マジメに報道するということをしなかったマスメディアにあるというほか、わしには言いようがない。
日本人が日本語のみでものごとを考えて、情報をあつめ、判断してきたのは一に新聞を始めとするマスメディアの伝えることは信用できる、という社会常識が元になってきたので、このマスメディアの責任分担部分が遠くから見ていて不愉快なほどフマジメなのでは、それを材料に考えてきた日本人の判断が現実に対して有効であるはずはなかった。
まして、いまの段階では日本のマスメディアなどは、たいして工夫もされていない「事実にみせかけた自分のおもいつき」を現実らしく意匠を凝らしてたれながしているだけの、いわば支配層が鳴らす壊れた進軍ラッパのようなものにしかすぎないが、それにすっかりだまされて踊り出すようにして行進する幸せな国民は別にして、大多数のまともな日本人のほうは、抑鬱状態に陥るのがあたりまえであると思う。

しかし冒頭で述べたように、(そう言われるとなんとなくバカバカしい気持ちになるだろうが)うつ病というのは、ただの風邪にも似た病気なので、いまのうちに良い習慣をとりもどせば、社会的な抑鬱状態も解決するに違いない。
そして社会的な良い習慣というのは、案外とイギリスから渡ってきた労働者達が南半球の島で実現しようとしたような「物質に偏向した単純な夢」が基礎であるのかもしれない。
その物質的に単純な夢、というのはつきつめれば富の再分配と社会への還元で、
ニュージーランドの経済規模はだいたい日本の三重県程度だと思うが、高速道路ネットワークはただで、相当な田舎にいっても制限時速が100キロのオープンロードだけは確保されている。「日本は土地代が高いから」というような言い訳はもっともらしいだけで本当でないことに気づけないのは、やはりそこでも抑鬱的な無関心が働いているのだと思う。

世界のコミュニティから孤立し、政治を信頼しては裏切られ、マスメディアの無能によって情報的言語的にも切り離されている日本は、実際に、この先、集団的なうつ病の状態にはいってゆく危険があると思う。

まだ風邪の程度であるうちに治してしまったほうが、のちのちの社会再建の仕事を楽なのではないかと考えました。

20/June/2012

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True Colour

現代科学では「人種」はすでに否定された概念である。
大量のサンプルから取ったDNAを解析することでいま地球の地表を覆っている現生人類は、たった6万年前の大乾燥期に、それまで44万年あまりを過ごした東アフリカにあった「科学のイブ」の集落の炉辺から立ち上がって東を目指した一団のひとびとの後裔にすぎないことが判っている。
どうしても「人種」という概念を使いたければ、われわれの人種は単一で、みなアフリカ人なのね。
いまでも稀にはいる人種差別の話が好きなひとびとに言って聞かせると、ふつーの反応は
「そんなバカな」です。
異「人種」間の遺伝子構成がほぼ完全に同じであることを告げると、なんだか、ショックをうけたような、神様に裏切られたような表情になる(^^)
実際には自分の愚かさに裏切られただけだが、それでも直感的に信じこんでいた「事実」に反した真実を告げられるとなんだか世界が横倒しになったような気分になるらしい。
でも色が全然違うじゃないか、とか、鼻の形も違う、とつぶやいて呻いている。
見ていて気の毒な感じがする。

群れをなして社会生活をする生物は個体の識別というか、小さな差異に鋭敏である。
犬に関心がないひとはラブラドールならラブラドールで全部おなじに見え、三毛猫なら三毛猫でクローンのようにしか見えないというが、その逆に恋に狂えば双子の相手でも見分けが付くようになるという。
自分のことを考えてもカタクチイワシが全部どれも個性的に見えて食べる前に一応ぜんぶ名前をつけたくなる、というようなことはないので、差異と意識の関連はわからなくもない感じがする。

むかし「人種」というものを(科学的な意味において)当然の前提だと考えたひとびとは、環境に適応するための形質発現に遺伝子構成の変更など必要がない、ということを知らなかった。
その可能性すら思い及ばなかったことに、かえって、20世紀には大流行りだった「人種差別」というようなバカタレな観念の原因があったのでしょう。

どの「人種」においても遺伝子構成が同じであるという容赦なしに突きつけられた「現実」のほうを前提にむかしから知られている人類学的に知られていた事実を眺めなおしてみると、まるで逆のみえかたをすることになったので、たとえば長いあいだ謎とされていた、フィリピン人のあるグループでは、まったくアフリカ人としか見えない外貌のひとびとが半数を占めている、というような事実は、実は移動してきたアフリカ人がやってきた地方と同じ熱帯の、殆ど変わらない気候のフィリピンのこの島に定着したせいで、形質を変化させる必要が無かっただけのことであることで説明されることになった。

あるいは遺伝子マーカーの追跡によってアジア人であることが判ったごく最近(たしか10年くらい前)まで当然のようにアフリカ人だと見なされていたアボリジニが、真の意味ではアフリカ人であることに変わりはなくても、旧来の「人種」分類に従えばアジア人であることがわかって、いかに短いあいだに環境にあわせて(遺伝子構成の変化なしに)形質が変化するものであるかが判って皆をびっくりさせた。
アボリジニはジャワがマレー半島と地続きだった頃に、そこまで歩いてきて、なんらかの理由でジャワ島から(多分)筏でオーストラリアに到達したひとびとであることが判ったからです。

メキシコ人はいまでも日本人は遠い時代に袂を分かった兄弟だという美しい物語を愛しているが、残念なことに、メキシコ人の祖先は中央アジアからユーラシア大陸の北辺に出て厳寒の氷雪を歩いてベーリング海峡をわたり北米に到達して、具体的な年数を忘れてしまって、そのうえに調べ直す気もしないが、北米のてっぺんから2千年だかそこいらのチョー高速で南米大陸の南端に到達したグループの末裔である。
アジア大陸の遙か南方のルートを通って日本という最終端に到達した日本人は、まったく別のグループに属している。

むかし見た映画にメキシコ人の女の子と恋に落ちて結婚することに決めた息子に「おまえのようなケーハクな奴がいるから、南米では白人は『有色人種の大洋』に呑み込まれてしまったんだ、バカモノ!」と思わず叫んで、自分の一家からバカにされてエンガチョされてしまう気の毒なおとーさんが出てきたことがあったが、生物学の神様がこのおとーさんの叫びを聞いたら、よいこらせ、と祭壇をおりてきて、「それは間違っておる」と諭したことでしょう。
異人種間で結婚したところで数世代のわたって形質発現が優性劣性の法則に従って起きるのは当然だが、別に遺伝子レベルの構成が変わってしまうわけではないので、よく考えてみれば、6万年前近所同士であったもの同士が故郷から1万数千キロを隔てた土地で、また邂逅したというだけのことです。

自分と異なるものを恐れ憎むのは未開人の特徴で、アフリカの田舎に住みにでかける研究者がいきなり石つぶての嵐で迎えられたりするのは、その未開な畏れのせいである。

あるいはヒトラーのナチは、「アーリア人」という「北欧系人種」をでっちあげて、自分達の狭量な文化に説得力をもたせようとしたが、アーリア人を「金髪碧眼」と定義してしまったために「ヒトラー同志は一見黒髪で褐色の眼に見えるが、注意深い者の眼には、ほんとうは金髪で碧眼であることが見て取れる」というような裸の王様もチ○チンをふりまわして踊り出したくなるようなオモロイ主張を行ったりした。
戦後、その「アーリア人」という人種概念の非科学性をあばきだして、さんざん笑いものにした英語系アングロサクソンやユダヤ人の研究者たちも、ほんとうは同じ穴の狢であって、現実が暴露されてみれば、白人が人間だとは思えなくて苦しんだ黒人も、その黒人の下におかれて喘いでいたアジア人も、実は全部アフリカ人で、粗放な言い方をあえてすると、日やけしていないものが日やけしたものを笑っていただけなのが真相なのでした。

ツイッタの友達の生物学者泉さんは、わしが天気の良さにつられて朝から遊びほうけていた頃、「この50年で人種間の交配がすすんだ」と書いていたよーだったが、わしの実感では、この10年でひとびとの意識から「人種」というものは加速度がついておおきく後退した。
いま人種意識が「20世紀的な迷妄」とふつうに感じられるのは、実際には、遺伝子解析の成果が、科学には関心がないひとにとっても見えないところから考えに影響してきたものだと思われる。

ツイッタにも書いたが、日本人であるきみが色の白い人びとに会ったら、
「しばらく見ないあいだに随分白くなっちゃったんだね」とゆっていればいいだけのことであって、きみの隣で、ぼおおーと見あげるような大きな白い身体を揺らせている、どことなくとぼけてマヌケな外見のにーちゃんは、6万年前には、きみと同じ村に住んでいた。
世界中に散らばって、それぞれにえらいめにあい、お互いが親族であると気づかずに激しく抗争すらして、傷つけあい殺しあったが、判ってみれば実は友人であるどころか親族だったわけである。

くだらないことをつけくわえると、インドネシアのトバという火山は74000年前に、この200万年では地球上の噴火のなかで最大だったと判っている大噴火
http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory

を起こしている。
ところが、Michael Petragliaたちのインドの採掘場から、そのとき降下した火山灰で区切られた、この噴火以前と以後の地層から石器にしかみえない石片がいくつも見つかっているので、もっとわかりやすい証拠(いちばんいいのはウンコでんねん)が見あたらないせいでコントラバーシャルになってしまっている(現生人類ではないだろう、という研究者もいる)が、どうも6万年前の大乾燥期以前にもアフリカを出て、ほぼ同様の移動ルートを通ってインド大陸に到達していたグループもあるよーです。
しかし、このグループは、あの大爆発を生き延びたのに、歴史のどこかで消滅してしまったもののよーである。
あるいは、そうやって希望をもとめて「緑のハイウェイ」を移動していった現世人類には途中で力尽きて絶滅してしまったグループが他にもあったかもしれません。

欧州では「人種」というものが言葉に厳正な意味でも存在していた時期があって、中央アジアから西に向かったグループが遭遇したはずのネアンデルタール人がそうであったことになる。
このひとたちは、現世人類の美の基準からするとたいへんな醜さ、というか、容貌魁偉なひとびとであったが、知能は現世人類と変わるところがなかった。
現世人類と同じく、自分達の身体的構造にあわせた武器をつくり、巧妙な刃先も使い方も現世人類と似たようなものでした。
ふたつ、主要な点で彼らは現世人類と異なっていた。
芸術をもたなかったことと、移動をしなかったこと。
言葉を変えていえば、「愚かさ」をもたなかったことで、
洞窟の壁に絵を描くようなムダなことを嫌い、未知の移住していってどうなるかも判らないような土地に考えもなしにどんどん移動する、というような軽率さも持たなかった。
ネアンデルタール人と現世人類が両方つかった洞窟の壁に描かれたバカタレな落書きは、すべて現世人類が残したものです。
ネアンデルタール人は、マジメなひとびとであって、洞窟を清潔に綺麗に保っているのが好きだったもののよーである。

ところが、現世人類と同等の知力をもち、そのうえ桁外れに大きな膂力をもったネアンデルタール人は滅びてしまう。
ほんとうの理由は誰にもわからないが、ネアンデルタール人が滅亡した理由は、気候が変化しても自分達の住み慣れた土地から離れなかったであるからのようにも見えます。
もしかしたら原子力発電所が崩壊したのに長老が「放射能の漏出とゆってもこのくらいなら安全だから」とゆってみなの洞窟に瓦礫をたきぎとして配った結果、実は有害だった放射能が集団全体に行き渡って壊滅したのかもしれないが、そういう証拠はないよーだ。

ここまで、特別な知見ではなく、英語人なら年がら年中あちこちで放送したり記事が載ったりするせいで、そーとーなバカタレでも知っている事をずらずらずらと挙げてきたのは、日本には5年間11回の日本遠征のあいだじゅう、なんだかやたらとジンシュジンシュジンシュ、ジンシュサベツ ジンシュサベツ ジンシュサベツキャベツ、と言いまわるひとたちが想像を絶する数でいたのをおぼえているからで、わしの大好きな映画、クリント・イーストウッドの「Unforgiven」で主人公の相棒、ネッド・ローガンを演じたアフリカンアメリカンの俳優Morgan Freemanは、
「人種差別を終わらせるゆいいつの方法は人種について話すのをやめることさ」と言っている。
人種や人種差別について話したがる人間は、たとえ自分が有色人であっても、自分が人種差別をしたくてうずうずしてる人種差別主義者なんだよ、というのは長い間人種差別と格闘してきたアフリカンアメリカンたちがたどりついた意見でもある。

このブログ記事には、日本に来て「人種差別論議」がダイ盛んなのと、「おまえら白人は人種差別ばっかりしやがって」と見知らぬひとびとに集団で罵られてぶっくらこいちまったわしが、日本のひとの話を聞いて、そーかなあーと思って書いた人種差別についての記事もいくつかあります。
マヌケなことに「人種差別なんて、この世界に、もうねーだろ」とゆったわしが、モニと妹に爆笑される、という記事を書こうとおもってこころみた会話の現実の悲惨な出だしからはじまっておる。

しかし、「the only way to end racism is to stop talking about it,」
そろそろ、わしはこの話題については、なにも述べたくない。
根本的な理由は今回の記事で述べたように、もともと科学ガキであったわしから見ると、
人種という概念が単に非科学的な迷妄で、もう十年もすれば、天動説やなんかと同じガラクタ箱行きになるのが見えているバカタレの玩具だからです。

これまでにアルコールがはいるとずいぶん「人種」の話をしたがるので、そっとパーティの招待者名簿から外された日本人や、友達同士の楽しい気楽な週末に呼ばれなくなった日本人が何人いるだろう。
さいわいなことに20代くらいの日本人には、もうそういう薄気味の悪い人はいなくなったように見えるが、わし自身、ながいあいだ、日本人というと「口では人種差別反対を唱えるが、自分がなんだかすげー人種差別主義者みたい」という印象がなかなかぬぐえなかった。
人種差別の話ばかりしたがるのが奇異だったからです。
しかし、人種差別マニアでない日本のひともたくさんいるので、そっちのほうへ行って話したい。

「白人死ね」「白豚氏ね」のひとびととの付き合いは長いが「人種」というものへのわしの考えは、ここに述べたので、そろそろこれでカンベンしてもらうべ、と考えたのでもあります。

24/January/2012

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日本の古典_その4 RCサクセション(忌野清志郎)

どんな音楽が好きか、どんな音楽を聴いているか?という質問くらい答えに窮する質問は珍しいと思う。
好きだと考えたり、聴いてみて、いいな、と思う音楽は音楽に浸かって暮らしている人間ほど年中変わっているからです。
音楽が好きな人間ほど、聴かれたくない質問のひとつなのだと思われる。

昨日聞いた音楽を思い出してみると
このブログ記事にも何度もでてくる

Grace Potter & The Nocturnals

Sa Ding Ding

Miguel Bose ( y Amaia Montero)

Shakira (y Miguel Bose)

Buika

Easy Star All-Stars

Mari Boine

Sinik

ちゅうような面々の音楽を相変わらず飽きもせずに聴いていて、それにうんざりしてくると、インド人たちのFM局やWBGOを聴いたりしていた。

音楽を聴いて、すっかり衝撃を受けてしまった、というのは、
むかしフィフスアヴェニューのラジオ・シティの近くにあったHMVの地下にDVDを買いに行ったら、たまたま流れていた
Salif Keita 

が最後で、それは考えてみると、もう12年も前のことである。

忌野清志郎を初めて聞いたのは鎌倉の義理叔父の母親の家で、その家にはApple IIがあったりFM7があったり、あるいはPC9801VM2という「テキストVRAM」という面白い工夫がしてあるNECのコンピュータがあったりで、そのうえ、観世栄夫の「井筒」を録画したVHSはあるは、大橋巨泉といまの奥さんだという若いアナウンサーがDJというか、リスナーのダジャレの審査をしているヘンテコな番組から突然
1910 Fruitgum Companyの「Simon Says」
http://www.youtube.com/watch?v=7k1hr2DnzPo
が流れてくるわで、なんだか家全体がとびだす絵本みたいな家なのである。

そーゆー、いっそこのまま博物館にしちゃえば、な家で「これ、聴いてみてよ」とだいぶん先のクリスマスプレゼントをかねて義理叔父からもらったのが、
RCサクセションと忌野清志郎のフルセットで、あとでニュージーランドに送ってくれた、このフルセットとやはり義理叔父が選んでくれた弘田三枝子やなんかの60年代のレコードの詰め合わせが、ニュージーランドの「町の家」にあるゆいいつの日本のレコードだった。

忌野清志郎の原点は、RCサクセションの「楽しい夕に」であるよーな気がする。
義理叔父の証言によると70年代にネットワーク局に出入り禁止になってからも「横浜テレビ」には出ていたそーで、その頃、
「九月になったのに」http://www.youtube.com/watch?v=l-NNo8sN9vA
「もっと落ちついて」http://www.youtube.com/watch?v=n9Euzdkp56w
がはいっている1972年に出たこのアルバムには、もう「忌野清志郎」がいっぱいつまっている。
とくに「もっと落ちついて」は若いというのもばかばかしいほど若かった作詞者の忌野清志郎の一生をかなりの範囲で「規定」してしまっただろう。
清志郎というひとは、途方もなくマジメなひとなので、自分でつくりだした、「ボーイフレンドのバイクに乗って」自分へのラブレターを出しに行く「あの娘(こ)」が清志郎のあまり長くはなかった一生におおきな影響を与えなかったとは考えにくい。

おおむかし「忌野清志郎」というブログ記事
http://gamayauber1001.wordpress.com/2009/07/17/忌野清志郎/

にも書いたが、その次に忌野清志郎が「素」の顔で登場するのは
1976年にまったくやる気のないバンドの、初めから売れないことが運命づけられたアルバムとして発売されてすぐ廃盤になった「シングル・マン」で、これには
「甲州街道はもう秋なのさ」
http://www.youtube.com/watch?v=5eNJGpwgnWI
という、わしの好きな歌がはいっている(^^)

年譜のようなことを述べる気はないが、このあとRCサクセションというバンドはほとんど「消滅」してしまう。
「あんた、グルーピーだったんちゃう?」とゆいたくなるほどRCサクセションが好きだった義理叔父が、RCサクセションの「ライブ」(ヘンな日本語だのい)があると聞けば、「テーブルのあいだを這い回るゴキブリの数のほうが観客よりもずっと多いような」
(義理叔父談)
「ライブハウス」を授業もデートもすっぽかしてとんでゆく、という「どさまわりだけど、けっこうパンク」なバンドとしてRCサクセションが再び登場するのは、もう70年代の終わりだったそーである。

義理叔父が「雨が降る日に並んだのはあとにもさきにもあの日だけ」という久保講堂のコンサートにでかけて、あとでお馴染みになるスタイル、「ゴン太2号」と清志郎がステージの端から端までコント55号の坂上二郎と萩本欽一
http://www.youtube.com/watch?v=BkHSSmBrOKQ
みたいに走り回り、後ろではジャズっぽい管楽器が精確なリズムでバックアップする、というRCサクセションのスタイルを大観衆が歓呼して熱狂する、というボロイRCサクセションしか知らない義理叔父をびっくりさせたコンサートは大成功で、RCサクセションの「のり」は一挙に日本中に広まってゆく。

義理叔父はその頃頭のいかれたトーダイセイだったはずだが、清志郎たちがたくさんの人間たちに「うけた」のが嬉しくて、
「もういいや、これで、なんだか、もうなんでもいいや」、よかったなあー、こんなことってあるんだなあー、と思ったそうです。
そうして、その日が義理叔父がRCサクセションのコンサートに行った最後の日になった。

わし自身は、かーちゃんシスターと義理叔父にプレゼントされたころは、おもしろがってよく聴いていたが、すぐにほとんど聴かなくなってしまったが、
思い出してみると、
「誰かがベッドで眠ってる」や
「ドカドカうるさいR&Rバンド」

が好きだったよーな気がする。

考えてみれば、マンガやアニメを別にすれば、これからあとの未来にも、中国のひとびとや半島人が永遠にとどかないかもしれないとおもえなくもない、日本というマイクロ文明の高みをしめしているのは、
RCサクセションや高田渡のような70年代にヘドの臭いがする小さな穴蔵のような酒場で、明日食べてゆける見通しすらなく、もうやけくそ、というか、どうなったってかまやしねーや、と思いながら演奏していた「日本社会から見捨てられたひとびと」であって、「日本」という国が歴史のなかに栄光を刻んでいるとすれば、経済や学問ではなくて、マリファナとウイスキーで頭がぐじゃぐじゃになりながら、これでもかこれでもかと日本の社会に悪態をつきつづけて、あるいはテレビへの出演が禁止になり、あるいはレコードの流通を止められて、ぼろぼろになって、それでも音楽と、一方ではパフォーマーと同じに、こちらもやはり世の中から弾き出されて「やけ」を起こしていた「ファン」とだけを支えにすることによって死なないですんだ清志郎たちだった。

最近になってよく知られているように、RCサクセションには
Eddie CochranのSummertime Bluesの、あんまり出来がいいとはいいかねる
替え歌がある。

http://www.youtube.com/watch?v=GpF3hoKLiFY
反原発の曲をつくった理由を訊かれて、「うけたかったからだよ。他に理由なんかねえよ」と答えたそうだが(^^)、
「地震ももうすぐ来るってのに、こんな狭い国に37基も原子炉つくってどうすんだ」と歌う、ぶっくらこいちまう炯眼は最初から最後までパンクな不良だった、ろくでもないガキたちだけがまっすぐに見られた未来なのだと思う。

「役立たず」で「社会の余り者」だった忌野清志郎たちの魂は「フォークソング」というような優等生の臭いがする歌の形式にはいりきれずに袋を破ってとびだし、自分達の内的欲求のみによってロックンロールの身振りでものを考えだしてゆく。
失笑するしかない粗雑さの西洋音楽の学芸会的コピーというほかないKPOPしかつくれていない半島人や、そこにすら届かない「ストリップが売り物なのか?」といいたくなる「バンド」にうんざりさせられている香港・台湾人たちが、「自分達の魂の声」が聞こえる音をつくって、それがステレオから流れてくるのを当然のことであるとおもっている日本人たちを眺めて、タメイキをついて羨ましがる由縁であると思います。

08/September/2012

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日本語廃止論

1946年に志賀直哉が雑誌「改造」誌上で「日本語を廃止してフランス語にすればどうか」と提案したことは日本の、特に文学者におおきな衝撃を与えた。
1980年代になると、この発言は「志賀直哉の醜態」であり、「志賀直哉にときどき見られた機会主義的な発言」ということになって、「なかったこと」にされたが、当時の人の日記を読むと、日本一の日本語の書き手であることが周知で、おおげさに言えば、作家の誰もが志賀直哉の日本語の標準に達することを目指していた当人が「不完全な日本語ではダメだ」と言い出したことへの衝撃がどれほどおおきかったか判る。

考えの底が浅いことで終始一貫している丸谷才一は1970年代に書いた雑文のなかで志賀直哉の考えの浅さを笑っているが、言いようによっては丸谷才一自身と同じく深くものごとを考えることをしなかった志賀直哉には、その代わり、自分自身ですら何を感じているのか判らないでいるような、ほとんど自己の自意識とは独立した深い直観の力があった。
小林秀雄は電車で偶然乗り合わせた志賀直哉の「なにも見ていないようでいて、なにもかも見透している眼」の怖さについて述べている。

いまから考えると志賀直哉の意見を頭から「たわごと」と決めてかかった人たちは同じ文章のなかの「フランス語に移行することなど簡単だろう」のほうに「この意見はダメだな」と考える根拠を見いだしていたので、半藤一利の敗戦直後の見聞を記した文章を読んでも、「不完全な日本語ではダメだ」のほうは、なにをっ、という反発は感じても、どうも本当なのではないか、と感じていたのがありありと判る。

面白いことに、志賀直哉が激しい反発を受けて、「日本語廃止論」が志賀直哉の一生の汚点と決めつけられたあと、最も真剣に「日本語で世界を表現できるか」議論することになったのは、ロックミュージシャンたちで、日本語でロックがやれるかよ、という内田裕也やジョー・山中の「Flower Travellin’ Band」に対して日本のロックは日本語でなければオリジナリティをもちえないと考えた細野晴臣や大瀧詠一の「はっぴいえんど」が対立の軸であったように見える。

大勢の外国人たちで賑わっていた赤坂の「ビブロス」や六本木の「JAJU」に入り浸っていた内田裕也やジョー・山中に対して炬燵に入って「プレスリー、いいよね」などと述べあっていた大瀧詠一たちとでは拠ってくるところ、立っているところが全然別で、「日本語で自分たちの世界観が述べられるかどうか」という対立が並行したまま終わってしまったことには、ライフスタイルの違いもあったようです。

「見るまえに跳べ」という「フォークの神様」岡林信康のアルバムを見ると、あとで「ティン・パン・アレー」や「イエロー・マジック・オーケストラ」につながってゆく、この「はっぴいえんど」が、バックバンドとしてクレジットされている。
1970年には一緒にツアーにも参加している。

吉田日出子によれば、それまでの、岡林信康自身を含むベタベタした情緒で恨み辛みを述べるタイプの音楽に嫌気がさしていたらしいフォーク歌手と日本語でも乾いた音が出せるはずだと信じたはっぴいえんどのあいだに諒解点があったのでしょう。

一方、内田裕也のほうは逆に、日本語世界から剥離して、疎外され、人物的印象として、怒れる右翼のおじーちゃんみたいな人になっていった。

前に「日本語は言語としての役割が果たせなくなって地方語の位置に転落するだろう」と書いたら、「無知なようなので教えてやるが志賀直哉の発言も知らないくせに、くだらないことを書きやがって」と書いてきた人が何人かいたが、
志賀直哉、桑原武雄、山本有三たちの「国語改造論」が冷笑された過去を前提としての記事であることは、このブログ記事のずっと前のほうに何度か書いてあるはずで、見当が外れている。

積極的に日本語をやめるかどうかは、どうでもいいことで、記事の論旨は「日本語で世界が説明できなくなっているのではないか」ということと
「日本語は真実性を失って『空洞言語』(mannequin language)化しているのではないか」というふたつのことだった。
日本語全体が言語として死語になるのは、その当然の結果にしかすぎない。
どういう理由によるのか、日本にいるときには研究者の友達が多かったが、最も年長の50代のMさんですら医学生当時使っていた生化学の教科書(多分、コーンスタンプだろう)が、英語が第五版だったときに日本語は価格は数倍であるのに第二版で、到底つかいものにならなかったと述べていたのをおぼろげに憶えているから、医化学の世界では学部生レベルでも、日本語は英語世界に追いついていけなくなっていた。
同じことが戦前では技術・物理の世界で起きていて、いまはビジネスの世界や金融理論の世界で起きている。
さらに最も致命的に思えるのは、たとえば20代の人間には自分の生活感覚や上の世代とは明らかに異なる感情のリズムが日本語では表現できないことであるように見えます。

インターネットの根源的な役割は、もちろん世界の破壊にある。
もう少し詳細に述べれば人類の歴史を通じて何千年と続いたスタティックな世界の破壊者がインターネットで、定型に対して不定型、固定的に対して流動的、静的に対して動的、すべてのものが混沌として渦を巻きながら高速で変容しつづける世界のエンジンがインターネットだが、一方ではインターネットには「大数の動的な知性の集合体」という側面も持っている。
そのインターネットの性格が最も活かされているのは北海文明由来の「シェアリング」の堅固な思想をもった知性の持ち主がもともとたくさんいた英語世界で、英語の外側から英語によって参加する人間が素晴らしい速度で増加することによって、当面ゆるぎそうもない言語的優越を獲得した。
簡単に言ってしまえば、「英語で考えることが出来ない人間は世界に参加できない」図式ができあがって、ネガティブな効果のほうを知りたければ、日本も典型だが、イタリアやスペインの田舎を旅行して地元のひとびととイタリア語やスペイン語で話してみれば判る。
「世界から取り残されたひとびと」で、それがための良さとそれがための悲惨とを、両方、判然と見てとれる。

最も興味があるのはインドで、映画、たとえばEnglish Vinglish
English Janglish
を観ても、The Lunchbox
Taking the wrong train
を観ても、中層家庭の家庭内の会話が半分英語、半分インド諸語になっている。

インド版「X Factor」が好きなので、よく観るが、スター志望のパフォーマーたちに対して述べられる講評は、ひとつの対話のなかで、たとえばヒンディ語で話し始めて、英語に変わり、またヒンディ語に戻ったりする。
話したり聞いたりするのに都合がよい言語を選んで、ひとつの発言のなかでさえ言語が混在する。

あるいは、クルマを運転しているときに聴いているのは、たいていローカルのインド人コミュニティFM局だが、ひとつの番組のなかでも英語とヒンディやベンガル語、タミル語が混ざっている。

インドの中等教育の教師には全国的にベンガル人が多くいるが、ベンガル人はベンガル語に高い誇りをもっているので、たいていの場合、ヒンディ語を話さない。
良い学校にいれると、そういう事情が働いて、父兄懇談のような機会には自然、教師に失礼がないように会話はすべて英語になる。

BBCのドキュメンタリを観ていると、火葬を受け持つ不可触賤民の若い男が「私たちは、カーストの最下層だといっても、私たちなしではどんな高貴な人間も死ぬことさえできない」と誇らしげに述べている。
ところで、見終わってから気がついたが、この若い男の人は、流暢な英語で話していたのだった。

人間の最も根底的な情緒の場である家庭で英語が話されるのは「母語」というものへの強い思い入れがあった人間としては驚きだったが、しかし、インドに限らず、考えてみれば、たとえば海外に移住した香港人/広東人のあいだでは以前から普通のことだったのである。

本来の自分達の言語から英語への移行は、おもしろいことに民族や文化によって特徴的なパターンがある。
欧州人は「移行」であるよりも多言語型で、ただ、このやりかたは異言語の人間が大量に往来する欧州の特殊な事情に基づいている。
連合王国を例にとると、ロンドンの小学校でホッケーのクラブに所属している子供は、一年に数回はフランスに遠征する。
中学校になれば、フランスだけでなく、スペイン、オランダ、ベルギー、…と遠征して練習試合を繰り返すだろう。

日本では、どんなふうに言語の移行が起きるか判らないが、いまのような教室での学習のベースでは日本語世界の部屋に自分で鍵をかけてしまう結果にしかならないのは自明であると思う。
翻訳や通訳のような職分が10年後にもあるとすれば、それは日本が閉鎖的な一地方国家になることを意味している。

最もよろしくないのは「仕事のため」に英語能力を獲得しようとするバターンで、第一、そういう姿勢では英語そのものが身につくわけはない。
いまのところ、日本の人で英語が「出来る」人には自らにスパルタンな習慣を課して「歯を食いしばって頑張る」タイプの人が多いように見えるが、傍からみると、そういうひとの英語には名状しがたい「浅さ」があって、本人は得意でも、英語が母語の人間からすると、なんだか聴いていていやになってくる英語であると思う。

鍵は「自然と学習する」方法をみいだすことだろう。
考えてみれば、言語というものの性質から言ってあたりまえだが、言語の習得は個人によって異なる。
誰にも教えてもらえないもので、教師に教わって効果があるのは発音とアクセントくらいのものではあるまいか。

ヒントらしいことを述べると、昔から、社会的競争が発達した国の国民は、多言語を身につけにくい。
試験の選別が厳しいばかりで個人主義を「利己主義」「わがまま」と考えて忌む社会では、なんちゃら方式の能書きばかりが多くて現実に臨むと唖然とするくらい話せないし書けない。
「英語は読めるが話せない」は、自分が秀才であると思いたいロシア人の、昔から有名な言い訳である。
聴いている英語人のほうは、「話せなくて聴けないのなら、それは訳しているだけで読めていないのだとおもうぞ」と思って聴いているが、気の毒なので、なるほど、という顔をつくってみせて、困惑を隠蔽するために微笑んでいる。

新刊やインターネット上の日本語表現の貧しさをみると、日本語の崩壊は当初の予想よりもずっと早く起きて、簡潔にいえば、いま眼の前にある。
もっかは、大多数の日本人は「言語を失った国民」なのであると思う。

おおきな言語集団が言語を失いかけたのは近代中国以来で、その中国は詩人で虐殺者でもあった毛沢東が「中国文明をいったん廃止する」ことで建て直してしまったが、日本は、どんな方法をとるだろう?

楽しみな気がします。

03/November/2014

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ブルースを聴いてみるかい?

詩が、たくさんの人に読まれるのが難しいのは、そこで表現されている言語の美、あるいは「高み」に届くためには読み手の側に訓練が必要だからである。
その観念が励起した場所にある「高み」のなかで表現の絶対性を獲得した言葉(詩句)を田村隆一は「定型」という言葉で呼んだ。
詩は、そのひとそれぞれの解釈があるから、というのは単に「私には詩が読めません」と告白していることに他ならない。
詩はまさに「ひとそれぞれの解釈」を許さないことが特徴だからです。

あざやかなるかな武蔵野、朝鮮、オルペウス

という吉増剛造の詩句を考えると、古い意味の音韻の定型は存在しないが、
あざやかなるかな、と故意にひらがなで書かれた言葉のなかに含有された「鮮」という漢字の形と朝鮮、表音から形象に言葉が転移したことによって逆に「朝鮮」からは朝の鮮やかさが呼び起こされて、武蔵野とオルペウスの呼応を支えている。
吉増剛造は、たとえばその詩のなかで「高麗川」という単語を同じような言葉の冒険のなかで使う事によって、日本人が半島人に対してもっている(日本人が意識することすらなしに言語を通じて表明している)歴史的な敬意を表現することに成功している。
書かれたもののなかではいちども述べられないが、背景には吉増剛造という人が日本人の美意識そのものが半島人の文化に由来していることを熟知している、ということがある。
そうして、詩句全体の定型を強固にしているのは、武蔵野、朝鮮、オルペウスというみっつの「遠く隔たったもの」を邂逅させた詩句の構造である。
詩人が発想したのではなくて言葉同士がよりあって詩人の手をとって詩句を書かせたのは助走や跳躍の試みがあますことなく描かれている詩の前後を見れば事情は明瞭にわかる。
余計なことを書くと吉増剛造の詩の特徴にひとつは詩人がどうにかして言葉と言葉をお互いに呼び合うようにさせようとする、まるで言霊を召喚しようとする巫女の儀式のような過程が詩のなかに詳細に描き込まれていることであると思う。

読み手の側ですぐれた詩のもつ絶対性に呼応できるだけの「観念の高み」をもつには、それぞれの言語における口承古典文学から始めて、その言語のもつ情緒の形や歴史性を理解することがもっとも近道だが、読書によっても、才能がある人間ならば表現の絶対性がもつさまざまな「定型」、もっと平たい言葉で言えば「あたりの感覚」をもつに至ることはできる。

現代世界では詩自体が死滅してしまっているが、まったく存在しないということではなくて、ちょうど恐竜の絶滅の原因について天井まで届く本棚のあるライブリで議論しているふたりの生物学者たちが、部屋の片隅の鳥かごのなかで自分達を不思議そうな顔でみつめてクビを傾げているインコ自体が恐竜の子孫であることに長い間気づかなかったように、かつての詩は「歌」に姿を変えて生きているのであると考えるのがもっとも適切であると思う。

歌詞のある音楽は、詩と解釈に相対性を許さないチューンとの相互補完でできている。「定型の高み」を言語が内包する歴史的な情緒の組み合わせによらず音楽というより普遍性が高い「定型」に聴き手への正確な伝達は任せて、解釈にゆらぎの余地がおおきな言葉を使っても、送り手が身をおく精神世界の全体が聴き手に届くという仕組みをもっている。

ジャズとブルースのおおきな違いはジャズが言語との補完をめざさずに音楽のみで「定型の高み」を精確な形のまま聴き手に届けようとするのに対してブルースは言葉と音楽が寄り添って、相手に自分の魂が置かれている場所そのものを投げてよこそうとする点にある。
音楽の側からみればジャズのほうが本道であるのはあたりまえだが、重要なことは、ブルースのようなやりかたでは、相手に向かって投げて、寸分の変わりもない形で受け取らせる「自分の魂の形」が「高み」でなくてもいいことで、ブルースや、ブルースに由来するブリティッシュ・ブルース、アフリカン・ブルース、というようなものはみな、ブルースがもつその機能に依存して広汎なひとびとの心に訴えていった。

2003年、ニューヨークの名物男 Jack Beers 
http://nymag.com/daily/intelligencer/2009/12/jack_beers_94-year-old_strongm.html
が建設に参加したRADIO CITYで行われたブルースの祭典「Lightning in a Bottle」
http://www.imdb.com/title/tt0396705/
は素晴らしいコンサートだった。
登場した歌手たちの顔ぶれだけを見ても、
David Honey Boy Edwards, Keb’Mo, Odetta, Ruth Brown, Buddy Guy, Larry Johnson, Clarence Gatemouth Brown, Solomon Burke, B.B.Kingというシブすぎてひきつけを起こしそうな顔ぶれで、まだデビューしたばかりの自信のかけらもないような、それでいて、歌い始めるとまったく別の人格になって無茶苦茶クールなMacy Grayの姿もある。
Hound Dogを歌っている。

「You told me you was high class
But I could see through that
Yes, you told me you was high class
But I could see through that
And daddy I know
You ain’t no real cool cat」

 ブルースの歌詞は聴いていると唖然とするほど単純な感情を歌ったもので、大好きなHoney Boy Edwardsの「Gambin’ man」の歌詞は、

I’m a gambling man’
gamblin’… all night long
well, I’m a gambling man’
gamble… all night long

I’m gonna gamble this time, baby
bring my good gal home

gamblin’ down in new orleans
gamblin’ down on rampart street
well, I gamble in new orleans
gamble down on rampart street
I fell in love with a little ol’ girl
and her name was peggy dee

I’m a gamblin’ man
gamble from door to door
I’m a gamblin’ man
gamble from door to door

yes, I’m gonna keep on gamblin’
my little girl don’t love me no more

I’m a gambling man’
gamble from town to town
I’m a gambling man’
gamble from town to town

yes, ain’t gonna stop my ways, baby
’til I bring my bull calf home

gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
you know I can’t never get lucky
to win my train fare home

で、ただそれだけ(^^)

皮肉な人間はブルースを「バカっぽい男の気持ちを歌った詩」と言ったが、それは実はその通りで、しかし、ブルースが歌ってきた、ガールフレンドにふられて、
「おまえ、いまにみてろ、おれがビッグになったときには、おまえはおれを捨てたことを後悔するだろう。そのときになって、おれを惜しんでも、ベイビイ、もう遅いのさ」というようなブルースではお決まりのチョーバカタレな「捨てられた男の叫び」は、それがちゃんと哀切に聞こえることによって、ブルースの偉大さのひとつである。

ニューヨークにいた初めのころ、わしは夜のハーレムを歩いてよくApollo Theatre
http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/04/10/1976/
に行った。
音響効果がどうにもならないくらいだめなその劇場は、建物全体がブルースで出来ているような劇場で、わしが好きだった二階への急な階段をあがる途中で、もう心はどんどんブルースになってゆく、というヘンな劇場だった(^^)

毎週素人が歌う夜があって、ど音痴なブルースを聴きながら、なぜ「低い」情緒を現代の人間が交換しなければならないか、理由を考えてみたりした。
考えているうちに人間のほんとうの価値は「愚かさ」にあるのだと気が付いたのもアポロシアターでのことだった

「Lightning in a Bottle」のDVDにはいくつかのインタビューがふくまれていて、B.B.Kingが「メリーランドのボルティモアのコンサートで、おれがでていくと、若い奴らがブーイングするのさ。あれはこたえたな。みんなロックが聴きたかった。おれが拒絶されたんじゃなくてブルースが拒絶されたんだよ。すごいショックだった」
と述べている。

80年代を通じてブルースは「くさい」音楽だった。
おっさんくさい音楽で、若い人間は聴かなくなっていた。
それは同時に古い世代のアフリカンアメリカンのもつ「黒人的感情世界」に対する白人やアフリカンアメリカン自身の若い世代の拒否の表明でもあった。

……日本語でブルースのことを書いておこうとおもうが、(いつものことだが)少し長くなりすぎた。
次にこの題でもどってくるときにはKar Karや他の第一世代から始めて、「アフリカ大陸のブルース」について話したいと思う。
金銭講座や、なんだっけ? 戸籍の話や日本の女性差別のときと同じで、ヘンなひとびとがいっぱい登場した場合には、第二回目はないっす。
日本語でなにか書くと「ぼくが読んだエライ人が書いた本にはアポロシアターはブルースではなくてジャズの殿堂だ、と書いてある。ブルースの殿堂だというならそうあんたが考える根拠になる出典を示してみろ」という人が必ず現れること玄妙なほどである(^^;)

ついでだから書いておくと、日本語世界で「常識」が消滅してしまったのは、日本語世界の往還になぜか跋扈している、そういう「わしかしこい族」が鬱陶しくて、めんどくさくなって常識がある人間のほうが沈黙してしまったからである。
あげくのはては、普通に話している時には温和で他人を笑わせてハッピーな気持ちにさせるのが上手な「トーダイおじさん」たちまで「一般の日本人」という項目を頭につくって「ああいうひとたちは、タダのバカだから」と吐き捨てるように述べるという悲惨な事態になっている。
日本のひと、そういう事態を改善するのに、もうちょっとそーゆー問題から正面から向き合えばいいのになあー、と思います。

25/February/2013

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流砂の上に立つひと

島田雅彦という1961年に生まれた作家について1924年生まれの吉行淳之介が、この人には珍しく嫌悪感を剥き出しにした調子で、「この作家はどこに立ってものを言っているのか皆目わからない。無責任であると思う」と述べている。
日本語をうぬぼれでは日本人なみになったと思う程度に学習してからは、ときどき吉行淳之介の「どこに立って意見を言っているのか」という言葉の意味を考える。

吉行淳之介という作家は鋭敏な日本語への感受性を持っていたので、現実には島田雅彦という人の「優しいサヨクのための嬉遊曲」という小説の題名に対してカタカナで「サヨク」とは、どういうつもりだ、と気色ばむ気持ちがあったのかも知れません。
想像力を働かせると、いまで言えば50代くらい以上の日本のひとびとのなかに「w」に対する嫌悪を表明する人が多いのと似た事情なのではないだろーか。

たとえば日本の新聞社が自社を説明したものを読むと「公正中立・不偏不党の立場から社会に警鐘を鳴らす」というようなことが書いてあって、ピンと来ないので英語に訳してみて、そのあまりの幼稚さに気持ちがつんのめってしまうことがある。
人間の語彙がとどくかぎりの世界で「公正中立」でありうるためには「なにが公正か」を認識できる必要があり、それが認識できるのは神様以外にはない、というのが英語世界で育った者が馴染んだ教えで、それゆえに神は傍観者であり、神が傍観者であることの意味は、神のみが傍観者として存在することを許されていることによって保障されている。
ところが日本の新聞社の立場は「私は神である」と宣言しているのと等価で、その知的傲慢さに、へろへろとした気持ちになってしまう。

なぜ「自分が傍観者である」と述べるようなあからさまな傲慢が日本では大手を振ってまかりとおるのか、ということを考えると、もともと西洋社会にもひとつだけ「仮定として中立公正であるふりをする」役割が是認されている職業があることに気が付く。
学校の教師がそれで、英語の世界で(多分、日本語世界でも同じなのではないかと想像するが)よく教師が独善的で自画自賛ばかりしている権威主義的な「裸の王様」にたとえられるのは、生身の人間が公正中立であると思い込めるマヌケさ、と言ってひどければ知的能力の低さにおかしみを感じるからだと思われる。

40代くらいから上の日本の人は、就職面接のときに「普段講読している新聞はなんですか?」と質問されたほどだというので、「言論が中立でなければならない」という、言論においては常識においてまったく無効なスタンスを、これほど広汎な日本人が、床屋政談から知識人の文章まで、信奉しているということには、「新聞の影響」ということがあるのでしょう。

嫌ないいかたをすると、神のみが公正でありうる以上、公正な意見を求めることには「自分が神になった気持ちになりたい」という自己満足以外にありえないが、福島第一発電所事故以来、特に東京オリンピック誘致を契機に、少しずつ洩れ伝わってくる「日本人がなぜ放射能を怖がる能力をもたないか」ということへの理由がわかってくると、英語人の目には、一個の「巨大自己満足社会」とでもいうべき日本社会の印象が出来てきたのだと思う。

「えー、わたしたちは燃料棒の移動を危ないとは思っておりません」と、さしたる根拠もなく「ダイジョブ・ロボット」のような無表情で述べるTEPCOのエンジニアや、インターネットで発言の中心をなしているらしい人たち、テレビで盛んに発言している人達、どの人も「傍観者」としての発言が多いように見えて、傍観者として座る外野席には「科学者」「知識人」「タレント」「インターネット賢人」というペンキの塗り分けがあるだけで、みなが実際の作業に携わる作業員や子供を守る為に投げつけられる罵倒や冷笑を腕をかざして避けている母親たちを眺め、いまのよけ方は案外よかった、
作業員の給料はいくらなんだ?というようなことを「評価」している。
誰もゲームに参加したがらないので、ゲームに参加するのは権力の側にある人間だけである。

傍観者であることが返って賢げに見える、という社会を畸形である、と思うのは、かつて60年代には散々に世界中で論じられたことだが、また元の黙阿弥に戻ってしまった。

高校の時の英語(つまり国語)の教師が、公正中立は右と左のまんなかにあるわけではない、と述べたことがある。
公正中立な観点は天上にしかありえない。
だから、きみたちは自分が公正な立場をめざしている人間であるとか、知的な傍観者であるというような傲慢なことを述べてはならない、と述べた事があって、そりゃまあそうだろう、と考えたが、いま考えてみるとあの教師は研究者として外国人のための英語を勉強したこともあるひとで、英語世界以外の国では「公正な視点」を持っている人間が存在することにショックをうけたことがあるのかもしれない(^^;)

日本語ならば「吉本隆明」というような作家の書いたものを読めばわかるが、真理にたどりつくためには行動と結びついた思想において「過激」の極みに赴く以外にはない。
吉本隆明が街頭に立って投石することすらなく「政治」や「思想」を述べる人間を不必要なほど軽蔑し毛嫌いしたのは、宗教への感覚をもっていた作家が、人間が神の役割を演ずることのインチキさを強く憎んだからだろう。

「訳知りの傍観者」が大量に発生した結果、日本の社会、とりわけ言論社会というようなものは、はてしなく痴愚の群れに似てきてしまったが、なにしろ人間にとって最も尊敬しやすいのは「なにもしないナマケモノ」なので、こういうことをいうと嫌がられるが、もう取り返しがつかなくなってしまった。

言論の自由など行政の胸先三寸で簡単に剥ぎ取ってしまえる社会になっても、「無知なあなたの杞憂にすぎない。法案をよく読め」と言い、吉松育美と言う人が信じがたい勇気をもって、日本の金融から道路上の屋台に至るまで、文字通り「あますところなく」支配しているやくざという巨大な力(やくざは政治の世界にも力があるのですか?という質問に答えて、「中曽根までは首相がやくざを呼びつけたが中曽根以降は首相のほうからやくざの親分のほうに行くようになった」と述べた元警察官僚のおっちゃんがいた)に立ち向かおうとしたひとりの若い女びとに対して、「(余計な世話を焼く)ガイジン対やくざ」のゲームになった、と観客席で述べる国では、ただのひとうけのする知的意匠こそが「叡知」なのである。

遠くから見ていると、たとえば、「右と左のまんなか」にあるはずのものが、「あいだがら」という相対座標のせいで、最も左側のはしっこでもイギリスでは右のまんなかにしか見えない程度にずれてしまっていて、極右的思考の仕草がどんどん社会の中心に堆積しだしているのが手に取るように見える。

「賢い傍観者」という立場をクールな知的スタンスと誤解した社会が堕ちていってしまった先を見て、「なぜ日本の『インテリ』は何度も何度も何度も同じ謬りを無反省に繰り返すのか」と考えてみるが、もういまさら考えても仕方がない、というふてくされた気持ちもあるのか、そんなこと考えても意味ないわい、と午後のあいだじゅう考えていたのでした。

21/December/2013

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いつかどこかで

その「種族」は国籍を超え、言語を超え、人種も性別も超えて、世界中に分布している。
特別な名前は付いていないが、お互いにそれと知っている。

きみには「現実を忘れてしまう」という愉快な癖がある。
今日こそははやくベッドに行くぞ、と決意して机の前に座ったのに、またいつのまにか午前3時になっている。
明日は7時に出かけなければならないのに、どうすればいいか、悩み始める。
いっそ眠らないででかければどうか。
それとも、さぼっちゃえば。

そうやって世間のほうの時間を考えるのが面倒くさくなって、きみは机の上に広がった、ノートブックや本や、いくつもウインドウが開いているコンピュータの画面に帰ってゆく。
よく考えてみれば、そんなことばかりやっているのは「破滅型」の人間というべきで、実際きみは社会的には不適格者だと思うが、それでもきみが檻のなかで過ごさないですんでいるのは、抜群の知能と、パズルみたいなものなら熟練の鍵職人のように、あっというまに解いてしまう不思議な能力のせいである。
子供の時から自然と身についた「処世の知恵」は、試験という試験、選別という選別には嫌がらずつきあって、そこで楽勝してみせることだった。

試験の回数がつみあがってゆくことによって、きみに判ってきたのは、あのくだらない選別にも良いところがあって、まず多少とも調子っぱずれのきみに対して世の中のひとはあんまり文句を言わなくなる。
もうひとつは、学校が上の段階に至るに順って、似たもの同士、というかきみと同じように頭がいかれたやつが同じ教室のなかに増えて行く。

70年代を通じて、アメリカ合衆国の学校でのイジメの理由の1位は「脇の下が臭いこと」で、次が「数学ができること」だった。
なんだか冗談みたいだが、数学ができるせいで自殺しなければならなくなった高校生もいた。
その頃のアメリカでは公立高校みたいなところで数学が出来るのは「せこいやつ」でクールでない、ということだった。
きみの種族の一部には、数学が(大きい声では言わないにしても)レモンメレンゲよりずっと好きだという訳のわからない人間がいる。
当時は、そういう人間は息を殺すようにして、ボストン郊外のケンブリッジという町にあるMITという巨大なキチガイ部落をめざしてベンキョーした。
そこにさえ辿り着けば、フットボールと女の子たちを「やって」しまう以外に才能なんてなにもないバカタレに胸ぐらをつかまれてネットにおしつけられたり、悪罵に我慢できなくなって立ち向かったあげく、校庭の砂をかんで、「クールガイ」たちの嘲笑を聞いたりしなくてもいいと誰かが言っていたからである。

はいってみれば、実際そこは天国で、きみはすっかりコーフンしてしまい、大学に近い橋が「なんひきずり」であるか実地に検証するために、級友をひきずって「ひきずり」の数を橋に刻みつけたり、やたらとモンティパイソンのセリフがはいる土曜の夜のバカ騒ぎに熱中して、テーブルの上にとびのってビーチボーイズのカラオケを熱唱したりした。

あるいは80年代の東京のきみの種族は、そもそも「制服」というものが嫌なのではいった6年制の中学から、やってるんだかやってないんだかいかにも判然としない学校にのらくらと通いながら、物理部無線班の正しい伝統に順って、ハンダゴテをにぎりしめ、昨日京橋フィルムセンターで見た小津安二郎の映画や、「博士の奇妙な愛情」について、友達ときゃあきゃあ言いながら冗談に打ち興じた。
東京大学に行ったのは、要するに「バカと会いたくない」というきみのだいぶん尖った、社会の大半をなしている人間への敵意のせいで、しかし、問わず語らず、きみの友達の大半も同じ理由で他の大学には行きたくなかった。

いざ大学にはいると、今度は同じ高校の友人たちもだんだんに色あせてみえて、ひとりでいることが多くなった。
お茶の水から坂を降りて、神保町の町へでて、一誠堂や東京書店を巡って歩くのがきみの習慣になった。
夕方には、井の頭線に乗って家に帰る。
急行がとまらない小さな駅で降りて、
今日こそは熱力学に決着をつけてくれるわ、と考える。

大学に行ったのが就職のためなんかでなかった証拠には、きみは修士課程を終えると社会に背を向けるようにプーになってしまった。
友達が嫌らしい笑顔で「将来どうするんだい?」と訊くと、興味すらなさそうに「飢え死にするから良い」と答えた。

90年代の後半にイギリスという国で人になりつつあったきみの種族は論外で、ゆるやかにひろがった広大な芝生がある家で、のんびり寝転がって青空をみている。
ときどき芝の上をころころ転がったり、何をおもったか「でんぐり返し」をしたりしている。
やっていることだけ見ているとバカみたいで、実際にもバカなのかも知れないが、本人の頭のなかは割と真剣で、「自分がなにをしたら世の中がよくなるだろーか」と考えている。
結果としては役に立たなくてもいいから、なんとか世の中の役に立ちたいという気持ちを忘れずに生きていかれる方法はないものか、と考えている。
そーゆーことを考えて煩悶して、思わずでんぐり返しをしているだけでも立派にバカである。

2011年の3月11日に、そうやって世界中に散らばって、いつも、ろくでもないことばかり考えていた「種族」のひとびとがとっさに考えたことのひとつは、日本という遙かに遠い国にいる自分の種族の人間がどうしているか、ということだった。
くっっさあああーい言い方をすると、世代が違い言語が違い住んでいる国が違い貧富が違い社会的地位や肌の色が違っても、この種族のひとびとはあまりに数が少ないので、お互いを血縁に近い存在とみなしている。
この種族の特徴であるタイプの頭の良さは、生存には通常マイナスにしか働かない。
フクシマのようなことがあれば真っ先に滅びてしまいそうに思えたからです。

幸いいまはインターネットが存在して、このひとびとのうち英語が出来るものは、数学やゲーム、アニメやマンガのフォーラムを通じて知り合った同族人と直截やりとりをして、自分が置かれている状況が刻々と把握されていたもののよーである。
しかし、日本という国はどこまでも風変わりな国で、この種族にあってすら、英語なんてハロー以外に興味ないわい、というヘンな亜種が厳然として存在する。
多分、だから、こうやって奇妙な文章を書いているのだと思います。

日本では放射性物質を巡る議論はつくされて、いままでの世界の通念とは異なっていまばらまかれている程度の放射性物質の量ならば安全だということになっている。
日本政府が決めたガイドラインなので日本の旅券をもっているひとにとっては、それはもう「生きていくための諸条件および前提」として組み込まれたのと同じことであると思う。
日本人に生まれるということは、そのまま放射性物質による汚染を人生の条件として受け容れて汚染された肉体とともに生きることだと国策して決定されている。
仮に日本人科学者や政府の役人が改変して決定した「新基準」が誤っていて、いままでの「旧基準」が妥当なものだとすると、十何年かの後に、大変な、というよりも歴史的な大惨事が始まることになる。いまの日本政府のやりかただと、4年もすれば沖縄にいようが東京にいようが北海道に住んでいようが同じことで、みな等しく危険な領域にはいってゆくことになる。
こういう場合、国民がとれる選択肢はふたつで、良い国民として国と社会の決めた方針に殉じて(なにしろ政府という権威も科学者という知性もそう言っているのだから)放射性物質を怖れずに雄々しく生活するか、自己中心的な非国民になって、「それでも、わし、怖いもん」と述べて、もうぼくは勝手に生きていきますから、と内心で宣言するか、どちらかであると思う。

国の方針が誤っていると理解しながら、なおかつ国にしたがって従容として放射性物質の蔓延のなかで生きていく、というのはなかなかカッコイイ考えであって、子供のとき宇宙戦艦ヤマトにカンドーできた程度の知性なら、なかなか良い選択であると思う。
少なくとも田舎者じみて斜に構えて、「けっ」なんちゃいながら、現実にはずぶずぶと東京にいて死んで..じゃない、間違えた、生きていくよりはまともな行き方であると思われる。

でもね。
もちろん、4年もしたら戻ると決めてでよいから、自分の種族が屯っている大学なり研究所なり、キチガイ部落なり、なんでもいいから同種族の人間に会いに行こう、と思って決心するには、良い機会ではないだろーか。
自分の国にいても、同じ種族の人間に言われなければピンと来ない、という特徴をきみが属する種族は有している。
そこに行けば、一瞬でわかるよ。
正しいかどうかは別にして、きみの言葉が通じる人間たちは、きみが「放射性物質の害とゆっても確定した知見はなくて…」と言いかけた途端に、みなで、どひゃっひゃっひゃひゃ、と大笑いしだして、dude、おまえさん、頭がいっちゃってるよ。
まあ、ビールでも飲みたまえ、悪い語彙が頭から逃げてゆくから、頭でっかちのドイツ人の宰相も「ビールはぼくらを楽します」とゆっておる、と言い出すに決まっている。

終わりのない議論は、たいていの場合、終わりのない議論の場にひとびとを閉じ込めて疲れ果てさせるために誰かが「場」をしつらえた結果おきる。
その議論の場にいるかぎり、なぜ自分がこれほど消耗な議論に力を奪われなければならないかわからないが、実は議論による消耗そのものが議論の目的なのだと思う。

きみは同族に面会することによって、ようやくそのことを悟るだろう。
自分がフクシマを巡る思考と信じてきたものが、ほんとうは全力で車輪をまわしているのに同じところにいるだけのハツカネズミと同じ行為だったと気がつくのに違いない。
そうして、そういう仕組みを巧妙に用意するだけの緻密で隠秘な能力を社会というものはどんな社会でも潜在的にもっているものです。

他のひとには他のひとの方法があるが、きみが属している種族の人間にとっては、異なる社会の同種族の人間に出会うのが最も近道だと思う。

いーじゃない、英語くらい出来なくたって。
そんなもん、ねーちんやにーちゃんと親密にしているうちには、あっというまになんとかなるであろう。
ならなかったら相手に日本語をおしえればよい。

きみとは初対面だが、もし会えなかったらどうしようかと、
そればかり考えていたよ、と岩田宏も述べておる。
行っちゃいなよ、海外。
類は友を溺愛するという。

きっと、会えると思う。
きみが強く望みさえすれば。
いつか、どこかで。

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痛み

沖縄のひとは、「魂を落とす」という。
落とすと、わるいことが起きる。
気持ちが落ち着かなくなったり、ぼんやりしていたり、体調が悪くなったりする。
落としてしまったら、魂を落とした場所へ行って
「まぶやー、まぶやー、うーてぃくよおー」
とゆって魂を呼び戻すそーです。

現代では心へのアクセスを失ってしまうひとが多い。
自分の心や感情がどこか遠くにあって、ときどき帰りつこうとしても、もう自分の魂の住所がわからなくなっている。
他人の苦しみは文字通り「他人事(ひとごと)」で、なんとも思わない、というよりも、どうにも思えない。
他人の苦しみを思って泣く、などという人間は偽善者に違いない、と思い込んでいるひとまでいる。
もっと酷くなれば、実際に、自分の苦しみでさえ「他人事」になってしまうひともいるよーである。

人間にとっての最大の不幸は自分自身にアクセスできなくなってしまうことであると思う。
ヘンな例を挙げるなら、ちょうど自分のオンラインの銀行アカウントにアクセスできなくなったひとと同じで、パスワードもIDもちゃんとおぼえているのに、いざやってみると自分に見慣れた心象はあらわれないで、なんだかのっぺらした、自分のまわりにいくらでもある表情と顔にでくわしてしまう。
自分はいったいどんな人間だったかが思い出せなくなる。

シリアルキラー(連続殺人犯)に同じ問題を抱えたひとが多いのはよく知られている。
ベトナム以来、戦場で苛酷な戦いに曝されると、やはり同じ問題を引き起こすことも知られるようになった。
実際、海兵隊で、気の良い、やや単純な若者を殺人機械に変えるための訓練は、言葉を言い換えると自分の心に鍵をかけて自分自身から隔離するための訓練そのものです。
そういう眼で見直すと旧日本陸軍の習慣と訓練もやはり自分の心を虐殺することに特化されていた。
集団強姦や無抵抗な民間人を射殺するのが通常の軍隊生活の一部であった日本陸軍の軍紀の弛緩は、ようするに最低限の人間性まで兵士達から奪い取ったことの結果であるように思える。

中世の武士はびっくりするほどよく泣いたという。
感激してはおいおい泣き、友達が喧嘩して去ると悔しがって号泣した。
いまの日本人からは想像もつかないひとたちであったよーです。

わしがもつ、自由闊達で自分の心が自分自身に向かっていつもドアを開けっ放しであるような日本人のイメージは、どうやら俊頼髄脳と並んでわしが大好きな古典である「平家物語」から来ているらしい。何でも書いて自分でも飽きたが生田神社で箙に花の枝をさして戦場にかけもどる景季の後ろ姿は、わしが歴史のなかでなんども見送った日本人そのものの姿でもある。

日本は、空恐ろしいほど貧しい国だった。
豊かな濃尾平野で国をなした織田信長でさえ、多分、(印象では)軍事費が国費の半分をかるくこえていて、農民や商人は、くうやくわずに近い状態だったと思われる。
卓越したデザインセンスに彩られた鎧甲や兵器の美しさは別にして、戦国時代の争闘などは庶人の目からはいまのアフリカの内戦と同じようなものだったのかも知れません。
その程度の生産性しかなかったはずである。

江戸時代になっても貧しさが変わらなかったのは、一般に印象される中期までというようなことではなくて、現代の感覚からすると「ボロをまとっている」としか形容できない幕末の写真に残っている庶人の姿をみれば、文字通り一目瞭然、江戸時代もまたいまの常識では理解できないほどの貧しい時代だったでしょう。
明治時代にやってきたフランス人は、日本という国の貧しさに息をのんで、「この国には、しかも資源と呼べるものがなにもない。人糞だけがゆいいつの資源で、日本人という民族は人糞を畑にまいて食べた結果の人糞を畑に戻す、ただ人糞の循環だけで生きながらえている」と書いている。

周りからは海で隔てられ、十分な資源といえば石灰岩くらいしかなく少しの鉄と質の悪い石炭が採れるくらいの農業国に温暖なモンスーン気候が災いして人口ばかりが巨大に膨れあがった近代日本は、世界のなかでは、町外れによそ者として住み着いた貧乏な大家族に似ていた。
最も近い半島人から見れば文明の最低の基礎である礼儀すらわからない最低の隣人であり、中国にとっては、ほんとうに国として扱ったほうがいいのかどうかも判然としない島の集合にしかすぎなかった。

日本に個人主義が育たなかった理由を訝る本はたくさんあるよーだが、あんなに貧しい土地にあんなに人間がたくさんいて個人主義が発達したら、それこそ怪奇というべきで、日本が取りえた道はふたつで、強固な階級社会を形成して頂点の階級において個人主義らしいものを形成するか、乏しい富をわけあって、一種の情緒的な全体主義社会を形成するか、どちらかしかなかったでしょう。

近代日本は、革命の原動力が底辺の武士であった、という特徴をもつ。
後に支配層になったひとびとも、いまで言えばテロリストの、乱暴なだけで他に取り柄がないようなひとびとです。
いまの日本は江戸時代の薩摩藩にありようが似ていると思う事があるが、
人間性を弱さの証拠として否定し集団によるイジメが社会のなかで慣習化されていた薩摩藩の社会を、高度成長期からバブル時代の拝金主義に対するアンチテーゼのようにして徹底的に讃美したのは司馬遼太郎というひとでした。
大阪のひとだったので、ちょうど正反対と言えなくもない薩摩の「議を言うな」文化がひどく好もしいものに見えたのかもしれません。

薩摩は極端な全体主義国家だった。
軍事に特化したような「戦士の国」で、明治時代の最大の幸運はこの「戦士の国」の最後の戦士達が生きているときにロシアが侵略を決心したことだったでしょう。
他のタイミングならひとたまりもなかった。
薩摩人たちは日本という国の守護神のように戦って、勝ったとは到底言えないが玄関からクビを突っ込んできた巨大な熊の鼻面におもいきりかみついて、這々の体で逃げ帰させることに成功した。

この日露戦争はしかしふたつの大厄災を日本にもたらしたように見えます。
ひとつは会戦主義だった当時では常識として「戦争に勝つ」ということは勝ったほうの文明度のほうが高い、ということをあらわしていた。
その結果、日本は国民レベルで「ロシア=欧州」と肩をならべたという実感をもった。
日本がたとえばせめてトルコの位置にあれば、比較する気にもならないほど富も文明の成熟度も違う当時の欧州と同等の「列強」になったとは思おうにも思えなかったでしょうが、日本は遙かに遠い国で、「日本は一流国になった」というメディアと政府の宣伝を信じないというほうが不思議だった。
よく考えてみれば、つい昨日まで白米が食べられれば大贅沢で、つぎだらけの粗末な衣服を着て、隙間だらけの西洋の基準では建物とさえ呼べないほどの貧しいつくりの家に住んで、今日は突然文明国になるわけはないが、とにもかくにも、日本のひとは自分達が世界の帝王のひとりになったつもりで国家的な傲慢という悪い病気を育てていった。

もうひとつは、日露戦争後の講和条約を日本が大勝した結果のロシアの命乞い条約だとメディアや帝国大学の教授たちを始めとする知識人たちの演説で思い込まされていた国民が、条約の何もぶったくれなかった内容に憤激して、巨大な暴動を起こしたことで、この暴動は日本政府のトラウマになったよーでした。
燃えさかる建物を見ながら、日本の支配層は「主張する民衆」というものの暴力性を見て戦慄したに違いない。
これでは自分達がつくったちっぽけな出来たての「近代国家」などひとたまりもない、と考えただろうと思います。

歴史を眺めると、それ以来、日本の政府がやってきたことは同じことの繰り返しだった。
臆面もない嘘をつき、マスメディアを通じて、それを正当化してきた。
日本のマスメディアは記者クラブという管制装置をもっており、そこに詰める記者達は長いあいだ政治家や官僚と同じ階層から出て、トップは同じトーダイの顔見知りである、という不思議な状態だった。

国の体面が民主主義でも全体主義でも、そんなものはただの意匠で、シャツを着替える気楽さで着替えるだけの、機能自体はどっちの場合でも精確に同じ、という日本式に巧妙な中枢装置は、いまは日本だけ出なくて半島や中国、香港、シンガポールというような国にも受け継がれているが、この支配層からみればものすごくよく出来た社会の管制装置はしかし、一方ではどれほど権力の内部で腐敗を亢進させるものであるかは、いまのいま、日本のひとが自分自身の身で首相が言うようには決して分かち合えたりはしない、個々別々の強烈な痛みとして経験していることで、外国人であるわしが、云々するに忍びない。

サバイバルのために始まった日本社会の特殊な試みは、しかし、もっと意外なところで個々人に深刻な影響を与えた。

自分の心にアクセスできなくなった大量のひとびとの存在がそれで、日本語ウィキペディアを見ると日本語では性的な嗜好の意味でしか使わないようなので語彙として使うのが難しいが、社会の明瞭な傾向としてサディズムが蔓延していることのおおきな理由もそれであると、わしには思われる。
西洋語のアパシーとは決定的に異なる、自分と自分の魂との乖離は日本人を徹底的に苦しめている。
自分の心や情緒と乖離してアクセスを失ってしまうことは、そのまま他者に対していくらでも残虐になれる、ということに他ならないからです。
おもいつきの整合性があるように見える理屈さえたてば、狂った獣の群れのように集団で個人を攻撃する攻撃的な狂気は直截にはそこから来ているように見えました。

痛みをわかちあう、という野田首相の言葉を聞いたときに、その語彙の選択の、いかにも心根の貧しい品の悪さとともに、わしは、なんという皮肉な標語だろう、と考えた。
「痛み」こそは日本人から奪われた感覚の代表で、他人の痛みを感じられないばかりか、自分の痛みさえ見失って自殺におもむく、自国の人間たちから自分達支配層が歴史を通じて奪い続けてきたものを、いまは分かちあえという。
しばらく呆気にとられてしまったが、そうか、このひとも「痛み」というものをもてない、自分の心から締め出されてしまった人のひとりなのだと考えて、納得とはいわないが、そーゆーこともあるのか、と不思議の感覚に打たれたりしたものでした。

31/March/2012

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多文化社会

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秋になって、庭から蝉の声が聞こえている。
ニュージーランドの蝉は、身体が小さい、声も日本の猛々しく巨大な音響を響かせる蝉に較べると、小さくてやさしげな蝉です。
夏のあいだじゅう咲き誇っていたブーゲンビリアの花も散って、もう数えるほどしか残っていない。
いつもなら、この気候に変われば、どおりゃそろそろマンハッタンに移動すべか、と考えるところだが、今年はオークランドにずっといる。
なんだかヘンな感じがします。

マクドナルドとタイムアウトの店の数を基準に文明度を定義していたガキわしの頃は、
一度かーちゃんに内緒でこっそりやってでかけてビッグマックを頼んだら出てくるのに15分もかかったオークランドなど、文明というものが理解できないチョー田舎であって、ケーベツの対象であった。
まさか、こんなところに縁が出来るとは思わなかった。

ニュージーランドが多文化社会に舵をきったのは、結局よいことだった。
クライストチャーチという、ニュージーランドのなかでさえ、日本人である義理叔父によれば、おまえたちは鈴木その子か、というほど白い顔ばかりが好きなので有名で、マオリ人も少ない白人町に毎年ニュージーランドの夏をすごしたせいもあるが、ガキなりにわしはオークランドが中心になって始めた「マルチカルチュラルソサエティ」への実験を、うまくいかないのではないかと考えていた。
案の定、1995年という頃のオークランドは、訪れるたびにどんどんバラバラになっていく印象で、そこここに虫が食ったように漢字やハングルの看板が並び、英語人のニュージーランド人からすると、外から見ただけではいったい何を商っているのかもわからない店がクイーン通りの片側にずらっと並んで、銀行のロビーでは接客用のカウチでキスどころか、お互いの身体をまさぐりあうアジア人の高校生カップルがねそべっていたり、
パジャマ姿の中国人ばーちゃんが大通りで声高な中国語で何事か話し合っていたりして、
これでは国がなくなってしまうと考えた首の後ろが赤いおっさんやおばさんたちが集団で立ち上がって、一足先に暴れ出していたクイーンズランドのオーストラリア人たちに呼応して、
すさまじい反アジア人運動を起こしたりしていた。

オークランドは都会なので、それでも表面で目につくほどではなかったが、ネルソンやオタゴの小さな町では、首を切った鶏をさかさまに中国系移民のドアに釘付けしたり、
韓国移民の農場の家の庭に羊のくびを放り込んだり、現に、わしが「牧場の家」と呼んでいた農場のある町は、中国人家族や日本人家族が4家族引っ越してきたが、嫌がらせに耐えかねて、何れも3ヶ月もしないで引越して出ていった。

わしはニュージーランドでは一年のうち短いあいだしか学校に行く必要が無かったが、わしが大好きだった先生が、ある日、校庭で遊んでいたわしに向かって歩いてきて、仲がよかったアジア人の友達Kについて話しておきたいことがある、と言った午後のことをおぼえている。
「仲が良いのはいいことだけど、あんまり仲が良くなりすぎてはいけませんよ」という。
わしが、どういう意味だろう、と考えていると、
先生は物事を理解するのが遅い、わしの頭のはたらきの遅さにしびれを切らしたのか、
今度はごくはっきりと、「アジア人の子と、お友達になるのは感心しないわね」と微笑みながら言う。
いま考えてみると、その同じ学校に次の年にやってくる父親が日本人の従兄弟の影響だけではなくて、そのときの先生のひと言が、日本への興味を後押ししたのかもしれません。

夕方、どういう理由だったかおぼえていないが、その日は午後にテレビを観ていて、トロントの特集をやっていた。
トロントは当時でもすでに成熟した多文化社会で、街を楽しげに闊歩しているインド人たちや、中国人たちの姿を観て、どうしてカナダではニュージーランドでうまくいかないことがうまく行くのだろう、と訝しんだ。
アメリカのマンハッタンのような都会よりも、1990年代のその頃はカナダのトロントのほうが多文化社会化が進んでいたと思います。
きゅうりのサンドイッチを食べながら、どーしよーかなー、と考えたがおもいきって、かーちゃんに
「トロントではみんなが仲良くやれるのに、ニュージーランドではうまくいかないのは、なぜですか? 国の大きさが違うからでしょうか?」
と訊いてみた。
かーちゃんが、にっこり笑って、
「時間が必要なだけですよ、ガメ」という。
でも、お隣のボブさんは、自分はロスアンジェルスに去年までいたが、ニュージーランドがロスアンジェルスのようになったら大変だ、と言ってました。
「それはお隣のボブおじさんが頭が悪い人だからですよ、ガメ。内緒だけど」
とかーちゃんが、ゆったのをありありと表情付きでおぼえている。
母親ながら、いたずらっ子のような顔で、シィーと人差し指を唇にあてて、くすくす笑っている。
「ロスアンジェルスになって、いろいろな文化の人が増えて、悪い事はひとつもないじゃないの。
素晴らしいことです」
わしは、ついでにディズニーランドもできるといいなあ、と間抜けなことを言いながら、
でも今度ばかりは、かーちゃんも間違えていて、どうもオークランドは滅茶苦茶になりそーだ、とクイーン通りのアジア語の看板の列を思い出していた。

かーちゃんは正しかった。
混沌のるつぼに見えたオークランドは、落ち着いてみると、多文化かどうか、というようなこととは関係なく、住みやすい、素晴らしい街になった。
多文化ということで言えば、ひとつの街がたとえば人種的偏見が少ないかどうかは、異性間のいわゆる「カップル」の数よりも、仕事帰りに職場の同僚同士でパブのテーブルを囲んで居る女同士、男同士の友達、あるいは学校の帰りに連れ立って帰る高校生たちがどんな組み合わせがあるか観察していたほうがはっきり判る。
アメリカの大きな都市で、普段はもちろん皮膚の色で嫌な思いをすることはなくても、
comfortableに感じるかどうかで、どうしても同じ文化グループで「下校友達」になることが多いようだ。
オークランドでは、インド人の女の子と赤毛の、みるからにアイルランド系の女の子が仲良く家に帰ってゆく。すれちがうときにインド人の女の子が「あんたって、ばっかよねえー。ドジ」と笑っていうのが聞こえる。

ポンソンビーのカフェで、ふと気が付くと、中東人と中国人の夫婦が赤ん坊をあやしていたり、ジャマイカ人の父親とオタゴ訛りのイギリス系のニュージーランド人の母親がベビーカーを覗きこんで笑っている。
インドの人、韓国のひと、たまたまだが、ちょうどテーブルが全部mixed coupleで、
あたりまえだが、ふつーにリラックスして日曜のブランチを楽しんでいて、オークランドはいい街になったなあー、と思う。

わしは、おいしいものが好きなので、その点でも多文化社会になって、ニュージーランドは激しく向上した(^^)

ガキわしの頃、クライストチャーチの「町の家」と呼んだ家はフェンダルトンというクライストチャーチでは名前がよいということになっているところにあるが、家の近くで繁盛していた中華のテイクアウエイ屋の春巻は水筒くらいの大きさがある巨大なもので、煮染めたというか、濃い褐色の油がしみこんでいて、その上にその油が機械油みたいな微妙ですらない臭いがするものであって、それを新聞紙に包んで、台の上にどんっと置く。
上から、最近はケチャップというひともいるが、もともとは日本のひとの「トマト」に近い発音で「トマトソース」と呼ぶウォッティーズ
http://www.watties.co.nz/
のハインツよりはやや甘味が少ないトマトソースをどちゃっとかけて食べます。
ガキわしの頃はロンドンも昼ご飯に食べる食べ物に関してはろくでもない街だったので、
そーゆー、馬のチ○チンを切断してフライにしたみたいな訳のわからない食べ物をへーきで、なんとも思わずに食べていた。
フィッシュアンドチップスの店は隆盛をきわめていたが、鮫の肉で、イモはいま考えてもうまかったが、鮫はおもいだしても腐った魚の肉をおしっこに漬けたようなヘンテコな味がしたりした。

その頃は、ふつーなニュージーランド人の夕食は大半の家庭で定食化していて、ひとつの皿の上に野菜と肉とイモがのっている。
野菜が温野菜であったりサラダであったりグリルした野菜であったりして、肉も、ステーキであったりラムであったりチキンであったり、ビンボな家ならばハンバーグやミートローフ、あるいはコーンドビーフであったりする。
変化はただそれだけで、来る日も来る日も、その「三色定食」を食べていた。

おととい、わしは、フランス人たちのチョーおしゃべりな大晩餐会に飽きて、後半だけの参加を企図し、ひとりだけこっそりテイクアウエィを食べることにして、中東人が多い店のラムチョップのトマト煮を買ってきたが、ラムはもちろん、カシューナッツがはいったサフランライスも、なんだか非現実的なくらいおいしかった。
巨大ポーションなのに、700円である。

アメリカ人や日本人は味覚のほかの部分は発達していても、文化的に「スパイス音痴」であるという。
スパイスの新鮮さや、微妙な香りの違いがわからない。
そーゆー通説はほんとうであるかもしれなくて、レジの綺麗なねーちゃんたちがビニル袋を鼻の前に持ち上げて、くんくんして判別しながらチェックアウトしてくれるスパイススーパーマーケットのスパイスは、本国人の厳しい評価をくぐっているので、新鮮で、すげーカッチョイイスパイスです。
当然、スパイスのものは、断然世界水準をうわまわっていて中東料理の水準に達している。
中近東の、たとえばレバノン料理などは、トルコ料理と並んで、世界の食べ物のうちの白眉で、中東人が西欧人を文明論的に憐憫するときにはだいたい食べ物が基準になっている。

モニとふたりで銀座でふらふらいちゃいちゃして遊んでいた頃は、中華料理というと交詢社ビルの上だとか、ペニンシャラホテルの二階だとか、そーゆーレストランにでかけてもいまいちで、残念であった。
中華料理はパリのほうがおいしーよなあー、
マンハッタンのChinatown Brasserie
http://www.chinatownbrasserie.com/

がなつかしい、グラミー賞をひとりでいっぱい取ったアデルの実物を初めて見たのもあの店だった、と考えるが、

オークランドには同じくらいdecentな味の中華料理屋もちゃんとある。

連合王国の唯一の紐帯、イギリス人の国民食であるインド料理に至っては、さまざまな料理屋が大量にあって、ブリヤニでもインドチャイニーズでもなんでも無茶苦茶においしい店がある。

しみじみ、えがった、と思います。

他にも香港人達が最新コンピュータパーツを持ち込み、インド人たちが知的職業の質を向上させ、というふうにオークランドは都市として世界中から学習している。

移民というひとびとの一般的な傾向はエスニックグループを問わず、遠く離れてしまっているからでしょう、自分達の祖国への愛情がほぼ異常なほど強く、一方では自分の一生と自分自身を向上させることに熱心で、「前向き」という日本語があるが、前向きどころか後進装置が壊れてるんちゃうか、というくらい驀進するひとびとで、とにかく懸命、頑張れば必ずなんとかなるであろー、と固く信じている点で楽観的で、もうダメだあー、どーせ、もうダメだあー、が大好きだったイギリス系ニュージーランド人たちも、主にアジア系移民達に背中を押されるように楽観的になっていった。

わしの部屋には、ひーひーじーちゃんが世界一周旅行の途中で撮った1915年のクライストチャーチの写真が壁にかけてある。
通りには自動車が犇めいていて、たくさんの人が歩いている。
第一、街並みからして現在(つまり、地震直前)より立派である(^^)

ニュージーランドは、いまはビンボ人の環境保護キチガイの国だが、もともとは富裕な国だったのが写真を見てもすぐ見てとれます。
歴史を眺めていると、それが、なにしろアングロサクソンばっかしの国で、欧州人よりも先に北半球から手こぎボートでニュージーランドに植民していたポリネシア人たちとも隔離しあっていて、いわば原理主義化したアングロサクソン文化のせいで、社会全体が硬直してしまった。
打つ手打つ手が裏目に出て、だんだんおちぶれていった。
安全で居心地がよく、みなが礼儀正しくて、清潔、正直ベースですべてがまかなえる国で、ガキわしの頃はまだ、何千ドルという小切手が誰でももっていける郵便箱に放り込んであり、ATMカードも同じならクレジットカードも同じ、家に鍵をかける人も少ない、という「同質社会」の特徴を全部もっていた。

移民をうけいれたのは、経済的な理由だったが、ニュージーランド人たちがみなでぶっくらこいたのは、経済であるよりも、生活が楽しいものに変わったことだった。
インド人たちは、とんでもない豊穣な文化の持ち主で、オークランドのあちこちのホールで年中コンサートや舞踊やビッグバンドのインド音楽をやっている。
他の国での迫害がひどくなるにつれていまは優秀な中東人たちがニュージーランドめざしてやってくる。

新しい移民達にとっても無論よいことはあって、たとえば、さっき挙げたスパイスだけのスーパーマーケットにはブルカの女びとの店員もいるが、わしがニッカリ笑って「だいさんきゅ」というと、覘いている目がきらきら光るようにして、にっこり笑って、ありがとう、という。
他人に言われて気が付いたが、そうやって見知らぬ男に笑いかけることは、あの女びとがやってきた国では極端に不道徳な犯罪とみなされる。
ニュージーランドでは、なんだったら髪を見せて微笑んでも犯罪にはならん。
それは、どうしても、あの女びとにとっては「よいこと」であると思う。

さんざんバカにされた態度をとられたアフリカ人たちが頭に来て、槍で中国人達を襲ったり、ポリネシア人たちが偏見に悩んでアルコールに溺れたりする問題は、もちろん、いまでもいくらでもあるが、ガキわしの頃から眺めていて、かーちゃんの言うとおり、
ニュージーランドは、切羽つまって、乾坤一擲キチガイじみて打った賭博に勝ったよーだ。

やっと、ここまで来た。
はっはっは、勝った、と思います。

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個人のための後退戦マニュアル・その5

あれから、ちょうど、1年になる。
あのときモニとぼくは、カウチに腰掛けて、あの奇妙なほど現実感のない水の広がりをじっと観ていた。
最も残酷な破壊は、いつも、奇妙なほど現実感がない。
911のときも、初めぼくは、それを映画のトレーラーだと思っていた。
何回も何回も繰り返すので、いったいこんな非現実的なストーリーの映画のために、こんなに巨額な広告費を使うなんて、なんていまいましいことだろう、と思った。

津波は、まるで凍った表面を広がってゆく水か、誰かが厨房の床にオリーブオイルの缶をひっくり返した、とでもいうように、するすると、やすやすと広がって、その不思議な感じは、ふたつの違う次元のものが折り重なったような奇妙な感覚でずっと頭のなかに残っていた。

福島第一原子力発電所の事故は、津波の巨大な破壊よりも、ぼくにとっては、もっと現実感のあることだった。
どこまでもぼんやりなぼくは、アメリカの友人たちに「あそこには2つ旧式な原子炉の原子力発電所があるはずだ。両方とも、あの津波ではひとたまりもないだろう」とeメールで告げられるまで、原子炉事故に考えが及ばなかった。
日本での原子力発電所事故の可能性と言えば、もんじゅ、と決めてかかっていたからです。

それから、どんなことが起こっていったか、きみもぼくも、もう、すっかり知っている。
放射性物質という、視覚にも嗅覚にも聴覚にも訴えず、数年という単位では疾病も見えない厄介な影は、終わりのない議論、結末のない憂鬱、どれほど注意していても生活のあちこちから忍び込んでくる脅迫になって、いまでも日本を苦しめている。

事故で明らかになった日本の科学者の信じがたいほどの社会に対する無責任と、こっちはどんな政府でも似たようなものであるに違いない、救いがたい、しかも十分予期できるほど退屈で予測通りの日本政府の不誠実と欺瞞、なんとか放射能が安全であることの論理的依拠をみいだして、生活を立て直す端緒にしたいと願う、「この程度の放射性物質は安全だ」という個々の日本人の国論形成への懸命な努力、… 絶対に起きてはいけない事故が起きてしまったのだから、当然すぎるほどのことで、社会に隠されていた問題までもがいっぺんに噴き出してきたが、そちらは日本のひとたち自身にまかせることにして、ぼくは、きみに話しかけたかった。
「個人」という立場に限定して、この敗退の局面でどうすれば生き残ってゆけるかを考えようとした。
「 個人のための後退戦マニュアル」というブログ記事がそれです。

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その2/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/22/個人のための後退戦マニュアル・その3/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/17/個人のための後退戦マニュアル・その4/

きみとぼくの現実離れした願いは、政府が率直に「避難してもらいたいが、政府にはそれを補償するオカネはない」と述べるということだったが、もちろん、そんなことは起こらなかった。
嘘に嘘をかさね、非望に非望を積み重ねて、日本の社会は一種の架空な事故の終熄をつくりあげた。
炉心をくいやぶってどこかにいってしまった核燃料は、存在の確認をする方法がないので、なかったことになり、わずかにいくつか残った、まともに作動しているかどうかも判らない炉内の温度計で一喜一憂することに関心の対象を切り替えた。
漏出する放射性物質の濃度の絶対値を考えるのは気が滅入るので、「先週と較べて濃度が高いかどうか」を報告して、「一定だ」という表現を使うことにした。

もっとも決定的だったのは「痛みをわかちあう」という、愚にもつかない、浪花節、という古い言葉を思い出させる薄気味のわるい言語感覚の命名で、放射能物質を積極的に全国にばらまくことにしたことで、原子力発電所の安全管理は杜撰をきわめるのに、そういうことには周到な役人頭をフルに発揮して、思慮深くまえもって、おもいきって引き上げてあった「安全基準」より下回るという数値を玉条に、日本全国、みなで放射能汚染をひきうけることになった。

たとえば産地を偽装しようとする中間業者は、「おかみの姿勢」に敏感である。
おかみにやる気があるとみれば、入れ替えたかった米袋もいったん倉庫にしまって、様子をみる。
おかみにほんとうには取り締まる気がなさそうだ、と考えれば、どんどんやってしまえと号令をかけて、法外な稼ぎめざして夢中で違法な労働に熱中する。

まして政府が公式に「痛みを分かち合う」などという姿勢を示してしまえば、要するに違法な行為を後ろから背中を押して督励されているようなもので、歓び勇んで本来は市場に漏出させてはならない汚染も、「消費の海」に向かってはき出し続けるだろう。

ぼくは、あとでひとが福島第一事故をふりかえってみたときに、「あれが分岐点だった。岐れ道であった」と思うのは原子炉を被覆する建物の爆発ではなくて、「全国民で福島の痛みをわかちあう」という言葉が政府自身の口から発っせられたときであると思う。
日本は、「放射能が安全なら勝ち、安全でなければ負け」という、外国人たちからみれば勝てるはずのない狂気の賭け、日本人だけが賭けてみて五分五分と感じている賭けの賭け金をおおきくして、ほとんど国民を挙げて全財産を賭けてしまったことになる。

ぼくは、きみに、どうするのがいいと思うか、ぼくはもうちょっと日本に残ってみようと思うが、と訊かれたとき、残ってみるのでもいいのではないか、と答えた。
日本のひとはバカではないから、しばらくすれば真相に思い当たるに違いない。
必要なのは、2年か3年という時間で、そのあいだ、自分のフォックスホールにこもって、個人個人の後退戦を辛抱づよく戦うことだけと思う。

移民、というのは、まず第一にひとに勝る能力がいる。
自分がうまれついた社会のなかでさえ、見知らぬ町に行けば、友達もなく、気楽にすごして店の主人と軽口を利くレストランもなければ、誰にベビーシッターを頼めばいいのか、セキュリティカンパニーと契約したとして、非常のときの連絡先は同じ町のひとでなければならないが誰にするのか。
仕事のリファレンスは誰が書いてくれるのか。
初めて直面する問題が山のようになって、その段階で、疲れ果てて動けなくなってしまうひとがたくさんいる。

ぼくは義理叔父の知り合いでニュージーランドに引っ越してきたひとの世話を引き受けたことがあったが、銀行と取引履歴がないので、先ずクレジットカードがつくれない。
家を借りるのにテナントとしての履歴がないので、良い家を借りられない。
話を聴いていて、たいへんなんだなあ、と改めて考えた。

まして日本のひととなれば、おきまりの「言葉」の問題がある。
インド人を例外として、アジアのひとは、みなこの壁に苦しむ。
ちょっとアクセントを間違えただけで、英語人には、「えっ? いま、なんと言った? 判らなかったんだが」と聞き返す癖がある。
単純に相手が言ったことをわかならいまま放っておくのが失礼なことだからで、周りを落ち着いて見渡せるようになれば、英語人同士でも、年中聞き返している。
普通の習慣なのだが、気後れを感じるもとになる、とアジアのひとはみな言う。

言葉ができない、と言っても「通じない」という意味ではない、と言い直したほうがいいかもしれない。
英語が日本では「大得意」だったひとで、英語人の国にやってきて鬱病になってしまうひとはいくらもいる。
気楽に話して、気楽に聞いていられないからで、言葉にはスモールトークでお互いにのんびりした気持ちになる、という重大な機能があるが、それがやれやしない。
なんだか、いつも全力で話しいるようで、実をいうと、聞いているほうも疲れてしまう。

他人事(ひとごと)の気楽さで、きみまでが「そろそろ他国へ移住しないとダメかもしれない」と言い出したときには、寂しい気持ちがした。
買ってきた食べ物をひとつづつチェックして、「安全な食品リスト」を作ったり、ぼくが送った各国大使館のメールを読んで、感想を述べていたりした頃のきみは、言い方が悪いかもしれないが、放射能の蔓延と、それに続く放射性物質の環境化のなかで生き延びてゆくのを楽しんでいるようなところすらあった。
「安全な中国食品」と言ってしまってから、自分で可笑しさに気づいて大笑いしたり、「安全なヴァージョンの久保田」を何ダーズも買い置きしたりして、活き活きとしていた。
だから、きみの「日本人全体がこうなってしまっては、もう、どうにもならない」という文言をみつめて、考え込んでしまいました。

仮に移住をするとして、きみの場合は、英語力もなにも、条件をみたすプログラムはたくさんあるのは、もう手紙にも書いた。
そういう意味では問題はないわけです。
ぼくの助けなどいらないだろう。

どこかの国に移住したときの根源的な問題は、やはり言葉で、ぼくが日本で感じた「目の前のものが目の前にあるような気がしない」感じ、なんとなくすべてがぼんやりしていて、しっかり現実になってくれない感じは、言葉がわかるかどうか、というようなことよりも、むしろ、おおげさにいうと、魂そのものが、その言葉で出来ているかどうか、のほうにかかっているように思える。

現実の問題として、たまたまなのかも知れないが、おとなになってから移住してきて、すっかりその社会になじんでいるのは、その社会のひとと結婚して、子供をつくった女のひとに限られるようにも見える。
ここで面白いのは、たとえば中国語しか出来なくて英語がカタコトというひとでも、子供が英語人になってしまえば、自分も(多分、子供を通して)社会に根をおろす人がいることです。

ぼく自身が5年間11回の日本遠征の最後の年に感じた「ホームシック」は、ほんとうはホームシックではなくて、退屈であったようだ。
モニのフラストレーションが伝染ったのだろう、と当のモニがいうが、案外、そういうところもあるかもしれません。
でも、その「退屈」がどこから来たかというと、やはり日本のものに「馴染めなかったから」かもしれない。
ぼくは、日本のいいところをたくさん知っていると思うが、日本のひとが問題にしない細かいところで、親しみをもてないことがたくさんあった。

フランス人よりもひどいのではないか(^^)と思うほどの立ち小便の癖もそうだが、清潔だが醜い街並み。
通りを歩くひとの表情の乏しさ。
抜け目がなく、せかせかした調子や、不思議な歩き方。
奇妙で、背中がけいれんを起こしそうな音を立てるものを食べるときの習慣。
そういうものには最後まで馴染めなかった。

具体的には、どういうことに違和感を感じるのかは、義理叔父にでも訊かないと判らないが、だとすれば当然、日本の人が英語人の世界に来てもやはりそう思うはずで、英語人、とテキトーなことを書いたが、同じ英語世界のなかでもイギリス人やニュージーランド人で、アメリカに行って住んでみて、あまりの違いにびっくりして帰って来てしまうひとなど、ざらにいます。

いま、こうやって、きみの顔を思う浮かべながら書いていて、日本のひとは日本をもっと大事にすればいいのになあ、とあらためておもう。
ロシア人にとってロシアがかけがえのない土地であるのと同じ意味で、日本人にとっては日本は(文字通り)かけがえのない国であるはずと思う。
むしろ、他国よりもさらにそうであるはずで、外から見ていると、そもそも「日本人」というひとびとは「日本」なしでは成立しない概念であるようなところすらある。
抽象的なことを述べているのではなくて日本語の「松」は、日本のやさしげで風に耐える姿の日本の松でなくては、そもそも成り立たない。
松籟が、西洋の黒々と聳える黒松では、聞こえるはずもない。

福島第一の事故とその後の一連の事象が一種の必然であった、といえば、それは日本のひとは怒るだろうが、長野の山の美しい野原にピクニックに行って、「砂防ダム」という名前の巨大なコンクリートの骸にびっくりしたり、鎌倉の夕暮れの大気の具合によっては屈曲されて江ノ島の右上の高いところに現実よりも遙かに巨きな大きさに見える茜色に染まった富士山が見える海岸に、延々とこれ以上ないほど醜い姿をさらして折り重なっている、いまでは消波性どころか、まったく無用のものであると判っているテトラポッド、水に映った空と現実の空の、二枚の青空のまんなかを歩いているような畦道をぬけたばかりの県道に、赤錆びたまま朽ち果てた、誰も撤去しないパチンコ店やラブホテルの広告塔、道ばたに無造作につみあげられた廃棄されたクルマ、タイヤ、そうしたものは、ぼくにとっては「小さなフクシマ」で、アメリカやオーストラリアの経済人に「頭がわるすぎて、どう言えばいいかわからない」と言われる、ニュージーランド人の頑固さ、カネがないビンボ人の集まりのくせに、新しく見つかった大きな埋蔵量の金鉱も「風景が破壊される」と言って掘らせず、電力が不足気味どころではなくて、年がら年中停電しているのに、風力発電にまで反対してなかなかつくらせない頭の悪さが、よいことであるように思えてくることもある(^^)

ニュージーランド人には「電力がなければ経済も発展しないのがなぜ判らないのか」と言われても「それとこれとは関係が無い」といいはる「滅茶苦茶な理屈」という強力な武器がある。もし、福島第一事故のようなことがあれば、「安全だというなら、おまえが証明しろ」と言って「市民」が暴徒化して官庁を襲撃するに決まっている。
百歩譲って、放射能が安全だと仮に証明されたとしても、「それでも放射能と一緒に住むのは嫌だ」と言うに違いない。
では、どうすればいいのか、と問うと、そんなことはおまえが考えろ、それもいますぐ、とゆってみなで腕組みしてえばって睨み付けるに決まっている。

英語国民のなかでも、ニュージーランド人の大半は、ニュージーランドに移住することによって、収入が少なくとも半減することを覚悟してやってきた。
英語世界におけるニュージーランドのイメージは「ビンボだけどクリーン」

「ボロは着てても国土はグリーン」だからで、現実もあまり変わらない。

むかし、ガキンチョの頃、家に来たプラマーのにーちゃんに、「ニュージーランド人からニュージーランド人自身をみると、どんな国民に見えるの?」と、いま考えると、アホとしか言いようがない質問をしたことがあったが、にーちゃんは、あっさり
「ひとかたまりのヘンな奴の集まり」という。
名答だと、いまでも思っています。

日本語が言語として成り立たなくなりつつあることの大きな原因のひとつは、日本が国土を失いつつあることにある、と、このブログ記事で何度か書いた。
いつか大好きな映画「Sumo Do, Sumo Don’t」の水田のあいだに一本だけあるまっすぐな線路をディーゼルエンジンの列車が走ってゆくシーンに使われた、びっくりするくらい美しい水田の風景を自分の目で見たくて、上田と別所温泉のあいだにある撮影地まで出かけていったことがある。
ところが、発見したものは、カメラが映画の高さと向きにある、ちょうどそのポジションで醜いものがかろうじて映らないだけのことで、現実の風景には、相変わらずのどうしたらこんなふうに醜く出来るのだろうというデザインの看板や、もろもろの日本の「田舎」に付きものの人間の薄汚い欲望の造形がいっぱいあって、ひどくがっかりだった。

田中角栄というひとは、土地を投機の対象に変える精妙な工夫を発明したことで、いまでも日本では人気がある政治家だが、もうあのへんから日本の国土は、その上に乗っかって暮らしている「日本人」自身の手でぼろぼろにされて、跡形もなく壊され、野尻湖のように破壊の余地がなさそうに見える湖さえ、巨大でマヌケな白鳥型の船を浮かべて台無しにして、崇高な気持ちを起こさせる山容の妙高山の麓には、なにをおもったか、安手の色ペンキを塗った観覧車と遊園地をつくり、ものすごいことには、浅間山の群馬側という、どんなに想像力を働かせても壊しようのない風景も、やはりマヌケな観覧車でぶちこわしにする才能にめぐまれた地元人がいたようでした。

そうやって日本人は自分自身を自傷していった。
自分達の、他には代替のない国土を経済制度においても実際の景観においても破壊し、国土とは呼びようのないものに変えていった。
日本は、「奇跡の経済」のリズムに踊るひとびとによって、 少しづつ削り取られて、 少しづつ死んでいった。

きみは福島第一事故を「終わりの始まり」であると思う、と書いている。
耳をすませると、自分の国が、自分の社会が、崩れてゆく音が聞こえてくるようだ、という。
声高に復興を話している人達の遠景には、聞き取りにくい声で、静かに絶望と諦めを述べているひとたちの囁きに似た声が反響している、というガメの話はほんとうだと思う。

ぼくにとっての後退戦は、もう終わりなんだよ、ガメ、と言う。
もう、この洞窟を出て、白い布を棒にくくりつけて出ていく時が来た。
ぼくは日本をせいいっぱい愛しているが、ぼくは「生き延びる」のではない自分の生活が欲しい。ふつうの生活がしたい。
子供がおぼえるべき初めの語彙のグループに「セシウム」があって、道を歩きながら子供が路傍の花をみつけて駆け寄るたびに、危ないと言って叱りつけるような生活に耐えていけない。

ぼくは、どこか、文明なんかないところに行ったっていいんだ。
いつも現実的なきみは「文明がないところに行くと、トイレだって水洗ではないぞ」といって笑うだろうが、でもほんとうに、もう文明なんて信頼したくない。
頭がいいやつがいるところも嫌だな。
ぼくに向かって、放射能がどんななら大丈夫か、とか、正しくこわがらなければダメだとか、そんなことを言うやつには、もううんざり。
あいつらは根底から肝腎なところがバカなんだと思う。

日本に踏みとどまって、日本の困っているひとたちに手を貸すのが「国民の義務」だというが、ぼくには、もうその「国民」が信用できないのさ。
国民、って、ぼくも含むのに、信用できない。
自分が信用できない。
自分が日本人でいることが嫌でたまらない。

それに、もう、とても疲れた。
1年も勇気をふりしぼって後退戦を戦ったのだから、ガメ、ぼくを許してください。
どこか放射能なんて金輪際考えなくていい土地に行って、ぐっすり眠りたい。
「放射脳」だって。
なんて、嫌らしい低劣さに満ちた軽薄な言葉だろう。
こういうくだらない人間の頭から生まれてインターネットで流通した愚劣な言葉に日本語は食いつくされてしまった。

ぼくは、どこか遠い土地で、敗残兵に似た「逃げてきた外国人」になって、誇りを失って、馴染みのない社会を呪いながら死ぬだろう。
いつかきみに「パセティック」という言葉には、「悲壮」という意味はないんだよ、と教えてもらったことがあったが、滑稽というほうの意味なら、いまのぼくは十分にパセティックだと思う。
自分でも判っています。
国土がないのだもの、ぼくには、もう何もない。
安全だ、安全だ、とお題目を唱えながら、SNSの太鼓を叩いて練り歩くひとびとがいるのが自分の故郷だと思うと、ぞっとしないが、もう、どうでもいい。
もう、ほんとうに、どうでもいい。

文面は、読んでいくうちに息が苦しくなってくるような感じのものだったが、最後の便せんに、大きな花の絵、椿の絵が描いてある。
鈍感なぼくにはきみがどんな気持ちで、その奇妙に明るい色調の椿を描いたのか判らないが、それがきみの(言及されなかった)希望の象徴であることを祈っています。

では。

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