Cogito ergo sum

クオークの発見は人間の一生の意味を変えてしまった。
「発見」といっても、ぼく、クオークを見たことないんだけど、というきみの声が聞こえそうだが、あたりまえと言えばあたりまえで、人間は自分の頭脳のなかでクオークを「発見」したので、科学者がナノサイズのそのまた何兆分の一のロケットをつくって物質のなかを探検して、「翼よ、あれがハドロンだ!」なんちゃったわけではない。
クオークには物理的な姿はない。
姿がみえないのに「発見」はヘンだろう、というひともいるのかもしれないが、その姿がないものの発見こそがクオークが人間の認識にもたらした衝撃の本質で、クオークはそれが極小な物理現象を説明する限りにおいて実在している。
仮にクオークが不要な極小物理現象の説明が可能であれば、クオークは「存在が疑われる」のではなくて存在しないことになる。

と、ここまで書いてきて、もう気が付いた人がいると思うが、クオークの実在の仕方は気味がわるいほど神の「実在」の仕方に似ている。
だいたい、そのへんのところで、科学への理解力がある大司教たちは、嫌な予感にとらわれたものであると思われる (^^; 

人間の視覚はふつうのひとがイメージするよりも遙かにぼろくて、腕を、まっすぐ、いっぱいに伸ばして親指を立てたときに親指で隠れている範囲だけが事物の認識に必要な解像度を持っている。
視野のほかの部分は「なんかあるんだな」という程度の極度にぼんやりした映像です。
その上に言うまでもなく、人間の目と視神経の構造はイカやタコよりもだいぶん劣った劣悪な構造になっているので、ほとんど手順を間違えたとしかおもえない発生の都合によって視神経がいったん眼球内部に突起してしまっているので、それを眼球外の視神経と連絡するために、ぶざまな、「盲点」と呼ぶ暗黒点がふたつある。

欧州で上司のすさまじいオーデコロンのにおいに悩まされながら天文研究生活を送っている「もじんどん」とツイッタで冗談を述べていたら、もじんどんが途中で、このひとの地ベタに足が貼り付いてしまっているようなマジメさを発揮して、「でも、光学望遠鏡の天体写真といっても複数の写真の合成だからCGと言えなくもないけど」と述べていて、そのときはパンケーキを食べる直前だったのでメープルシロップをかける手をとめて述べるのはめんどくさいので、そのままツイッタ上の会話から離れてしまったが、そのときに、「言ってみてもいいけどねー」と思ったのは、人間の目も、要するにCGで、大脳が人間が日常みていると思っている映像をつくっているのは、たかだか親指のおおきさの視野から大脳が合成したグラフィックで、肉眼もCGにしかすぎない、ということだった。

ルネ・デカルトが「Cogito ergo sum」(I think,therefore I am)
と述べたように人間は肉体というハードウエアとmindというソフトウエアに分かれている。
mindというソフトウエアのプロセッサーが肉体の部品である大脳で、この大脳というプロセッサは自由意志がノーテンキに信じられていたむかしとは異なって、現実には、人間の肉体がその部分であるchaoticな物理現象そのもので、いつも嵐が吹き荒んでいる内部宇宙というか、絶え間なく何万というダイスが転がされているとでもいうような、コンピュータゲームなら8ビット時代から有名な「ライフ」をイメージしても悪くはないが、人間が「意志」という言葉で自分で意識するよりもずっと物理法則に支配された、初期条件によってほぼ一意的に導き出される、予定的なものです。
初期諸条件が多すぎるので、かつては、解きほぐすわけにもいかず、めんどくさいので、自由意志みたいなものがあるとされていたもののよーである。
ハードウエアである大脳がmindという機能の総称をもつ情報処理系にしたがって結果としてはきだしたものが人間のこの世界への認識、つまり現実だが、視覚のようなごく基礎的な情報がすでにCG処理で出来ていることでわかるとおり、「現実」はmindよりも下位の真実性をもつものにしかすぎない。
たこ焼きの香ばしいにおいや、出来たてのたこ焼きの上でヘニョヘニョダンスを踊っている花かつをが、いかに頼もしげな「現実」に見えても、BBCが最近惑溺している、CGを駆使した最新の恐竜サファリプログラムというようなものを観れば一目瞭然で、もういちどしつこく繰り返すと現実はmindよりも下位の真実性しか持っていない。

「生きがいとはなにか?」「どうすれば意義深い人生が生きられるのか?」というようなワニブックスのハウ・トゥーブック的な深刻さをもった人生の意味を考えるときに、意識されなければならないのは、人間が宇宙の物理法則の支配下にある100%物理的な存在で、カオス的な精神や意識というようなものも含めて、宇宙の物理現象内に限定される存在であることがまず第一だろう。

人間の大脳内を3.5V程度の電圧を閾値にして駆けめぐる信号は、たとえば群れから少し離れたアンテロプをどうやって捕食するか、というような莫大な情報の処理を必要とする雌ライオンの大脳とほぼ同じ思考傾向をもつが、そうやって形成された人間の思考と意識は、同じ結論に到達する強い傾向をもっていて、だんだんに理を詰めて考えていくと、人間の「自由意志」などは実際には与えられた初期条件にしたがって起こる物理的諸法則にしたがった結果で、「人間性」というようなものは、強固な意志であるよりは初期条件に依存していることに思いいたる。

人間の一生はアミノ酸の生成と消滅、雲の生成と消滅、銀河の生成と消滅、と本質的に変わらない生成と消滅の事象にしかすぎないが、ハードウエアとして(枚挙の筋道がおおく、通常の事象よりも桁違いに偶然性が高いために混沌とした)有機的ハードウエアを選んだために情報処理、つまり意識の対象として自己も選択してしまった、ということに人間というハードウエアとソフトウエアのセットの特徴がある。

人間が「なぜ?なぜ?なぜ?」と知性それ自体が狂気であるかのような巨大で無意味な好奇心を持ち、あらゆることを問い続ける存在であるのは、そもそも、まるで天気そのものが頭のなかで発生しているような、気まぐれで、混沌としていて、ちょっとしたきっかけで、あっというまにおおきく変化する「自然物としての集中神経系」を耳と耳のあいだにもっているからである。
混沌を制御する最も有効な方法として人間の大脳とmindのセットは「疑問」を採用した。
人間が解答が存在するはずのないことにまで疑問をもつのは、要するに疑問をもつことそのものがchaoticな内部宇宙である人間の意識が拡散してしまわないためのバインダの役割をはたすからである。
厄介なのは、ここで制御方法として人間というシステムが採用した「疑問」は自動的に自意識に対しても向けられてしまうことで、自分自身を処理対象とした情報処理は、その論理的不可能性に従って、つきつめる速度がはやすぎると自殺に至ることまである。

人間の認識の方法が発達していくに従って、現実はあってもなくてもどちらでもよいことになっているのは、ほとんど自明であると思う。
自分の存在を疑いのない実在であることを前提にしている「生きがい」というような自分の存在への認識の仕方も、古い時代の言語の金魚鉢のなかから人間が世界を眺めていた時代の、屈曲でひどく歪んだ自己存在への認識として笑い話のタネになってゆくだろうと思われる。
人間が宇宙が生み出した最高の美しさを持った系であることと、それを「自分」として意識する輝かしい病を獲得したことは別の問題に属する。

ほんとうは人間の一生の意味、というようなものが、1ページ目から書き直されなければいけない時に来ているのだと思います。

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