官邸前の愚者の群

日本で毎週金曜日に行われているデモは、「官邸前」で行われているから暴発も阿鼻叫喚もなく行われている、という考えがある。
官邸が出来てからしばらくして閉館になってしまったが、あの官邸の隣にはキャピトル東急という、もともとはヒルトンが開業したホテルがあって、わしは何度か泊まったことがある。

わしは旅先でもなんでも酔っ払うとメンドクサイので、酔っ払った町のホテルでテキトーに泊まる、というえーかげんな性格まるだしの癖があるが、赤坂にはおいしいギネスを出すバーがあって、一杯2000円だかなんだかのそのギネスは、ただのギネスなのだから、そんなにオカネをだしたくはないが、そのバーテンがいれるとなぜかおいしいので、意志が弱くなると、ついふらふらと、そのバーへ足が向かった。
想像すればわかるが、日本にいるときというのは、家をもっていたとはいっても、わしにとっては「旅先」にいることであって、そういう用件のない旅先でギネスを5杯くらいも飲めば、すっかり良い気持ちで、ニューオータニのホテルのてっぺんのバーでも酔っ払って、そのうちには意気投合という陳腐な言葉がぴったりの気持ちになったシドニー生まれの、なんだかものすごくマジメなストリッパーのねーちんと、ふたりで朝まで飲み狂ったりしたよーである。

キャピトルホテルは、そーゆーときに泊まるホテルで、あのホテルは裏に日枝神社が続いてもいて、夏などはなかなか良い場所だが、そのときに見覚えた地形から言うと、人がたくさん集まってデモをするには極端に不利な地形である。
見てないからわからないが、一万人も集まれば、延々長蛇の列になって、戦火を逃れて道路に展延する難民の行列(すみません)みたいに見えたはずである。

むかしはのっぺらぼうの顔の狢が出たという紀尾井坂には清水谷公園という小さな小さな公園があるが、せめて、あのくらいの核になるスペースがないとデモには暴発的なエネルギーは生まれない。

それが良かったのではないか、というのが説の根拠で、出典が気になって仕方がない出典ヘンタイのひとびとのために言うと、説をなしているのは、わしである(^^)

1992年のロスアンジェルス暴動は、このあいだ死んだロドニー・キングへの警官の無罪評決がきっかけということになっていて、それは実際にそうなのだろうが、ガキわしが見聞した範囲では、それは「韓国系アメリカ人対アフリカン・アメリカン」の緊張が生んだ暴動と意識されていた。
ロスアンジェルスのあの辺りでは「ノー・ニガー」と張り紙を出していた店もあったとかで、アフリカン・アメリカンには韓国系人たちへの憎悪をあからさまにする人が多かった。

屋上に銃列を敷いてアフリカンアメリカンたちに対峙する韓国系人たちの有名な写真
http://commonamericanjournal.com/?attachment_id=45932
があるが、もう掠れてしまって、ほんとうかどうか判らなくなっている記憶のなかには橋の上に並んで、射撃する韓国系人たちの姿がある。

あるいはyoutubeを覗けばいくらでもあがっている、最近の暴動の動画を見ても、
http://www.youtube.com/watch?v=NljVxqRpbw0

群衆の怒りが「爆発」すると、だいたいどういう感じになるかは、手がかりくらいはつかめるだろう。

ツイッタでジャンミンという、いろいろなオモシロイものを教えてくれるので、わしがフォローしている人が渡邉正裕というジャーナリストの「日本でデモっていうと、署名活動と同じくらいの意味なんだよね。アラブとかの革命が前提のデモとは全く別モノ。既存の法律を守っていたら何も変わるわけないじゃないか。既存の体制が自分の都合のいいように作った法律なんだから。みんなきれいに洗脳されてる。」
「「管理されたデモ」は既にデモではない。その本質的な意味合いから、存在しないもの。警察に管理されたデモ=「○○○」と同じ。」
というような、官邸前のデモは「ニセモノ」で、あんなものは「予定調和なガス抜きのお祭りなわけで、お上意識が根っこまで染みついてる」
と述べていて、微笑とともに読んだが、
このひとが「ほんとうのデモ」と言っているものは英語ではriot、暴動と呼ぶ。
既存の法律に従っていては何も変わらないのだから、ダメであるというが、しかし、それはこのひとが「既存の法律」あるいは「既存の体制」に人々が実効性をもって正面から立ち向かったときに国家というものがいかに怖ろしい牙を向いて、というよりも効率的な暴力機械になって、どこまでも血の通った人間でしかいられない「民衆」を肉体の外側と魂の内側から、いかにずたずたにするかへの想像力をもたないから、暢気に「あんなデモじゃダメだよ」とチョーノーテンキなことを言う。

日本の社会を見ていて顕著なのは、ちゅうか、ぶっくらこくのは、このジャーナリスト人のように、「国家の暴力」というものへの想像力を根本から欠いている人が多いことで、国家の「暴力発動」スイッチを押してしまえば民衆などは、ひとことを述べる以前に無惨に踏み潰されるだろう。
天安門を見て「あれは中国だから」と考えるひとは、よほど暢気な民族差別主義者なので、鄧小平は糊塗するのがメンドクサクもあれば、胡耀邦の息がかかった人間たちにむかっ腹を立ててもいたので、いっちょうナマの姿で国家というこの世で最大の暴力装置の力の片鱗を見せてやれ、と思っただけである。

日本の政府が、官邸前に集まった人間を2、300人ぶち殺したところで、しばらくは非難されるが、特に「日本」という国に痛痒以上のものを与えないのは、天安門事件のあとの中国の興隆ぶりを見れば簡単に納得がいく。「西洋人たちがきっと送りこんできてくれる」はずの「自由の女神」などは、どこにも姿はなく、その代わりに勇敢に戦った中国人たちが見たものは、
ほとぼりが冷めた頃に商談にやってくるフォルクスワーゲンであり、BMWやトヨタの社長たちだった。

わしはジャンミンの手に導かれて、通り雨のように読んで、渡邉正裕というひとの言う事を、へえ、と思って好意的に眺めたが、デモの箇所は、正義漢の小学生がリングの上のプロレスラーに「だって、あんたたちがやっているのは八百長じゃないか!」と叫んでいるのを見ているようで微笑ましく感じた。

実際には、西洋のどんな社会でもデモは平和裡に行うことになっているのは、言うまでもない。「黙っていられない」から通りに出ていくので、デモというのは社会のためというよりも自分のために参加するものなのである。
それに実効的な社会変化の力を加えようとして石や火炎瓶を投げ、自動車をひっくり返して派手に暴れる人間も出てくることがあるが、そうなった時点で、国家はこれを「暴徒」として仮借なく押さえ込みにかかる。
それでもなお法律外の運動力に訴えようとすると、正体の片鱗をみせるに至ることすらある。

国家の正体、というのは憲法なわけではなくて、どんな国家も同じで「絶対暴力」である。これが国家のすべての権威、光輝、やさしさ、その他考え得る限りの国家のもちうるすべての特性の源泉であって、「絶対暴力」を本質としない国家はこの世界には存在しない。

しかも国家がほんとうにやる気を出してしまえば、国民などはひとりひとりでも束になっても、十分組織化されていてすら「ぐうの音」も出ない。
たとえば、「そうなったら日本から逃げる」という幸せなひとがあるが、そういう事態になって国民をおめおめと海外に逃亡させる国家など、あると思うほうが頭がどうかしている。

そーかなー、と頬をふくらませて考える人は、暴動の先にある「革命」というものが
、どういう状態の国家で、どのくらいの成功率をもったか歴史を振り返って考えてみるのも良いかもしれない。

カール・マルクスが考えた革命は、もともと理屈の上ではイングランドでしか起こるはずのないものだった。
しかし現実にマルクス式の革命が発生したのは、政府と呼ぶのが憚られるようなヨレヨレでふらふらの、「なんでこんなボロイ政府がまだ立ってるんだ?」と訝られるようなチョービンボ国あるいは骨董品国家ばかりであって、断末魔に苦しんでいる政府に最期の毒の一滴を盛るに近い役割しか革命には与えられなかった。

もっと大規模で有名な革命に少し話を移しても、フランス革命は徹頭徹尾無惨な失敗の物語であって、理想と思想、もっと言えばありとあらゆる観念が、現実の社会と国家にとっていかに有害であるかの見本市のようなものにしかすぎなかった。

わしは大規模な革命のゆいいつの成功例はアメリカの独立革命であると思うが、なぜこれが成功したかの説明は、ここでホイホイと書けるような性質のものではなさそーである。

わしは正直に言って、なぜ官邸前の役に立たないデモが大逆事件以来、あんまり良くできてもいなかった見せかけの「自由社会」の意匠はべつにして、徹底的に根こそぎにされてきた日本の民主主義の復活の兆しであることを疑うひとがいるのか、理解できない。
なんで、そんなものに違法性や暴力性、もっと言ってしまえば実効性が必要なのか、さっぱり判らない。
それとこれとは、関係のない話に決まってるでないの、と思う。

官邸前のデモのことを考えたり、日本語とかは、やっぱし、もういい加減にすべきだろーか、と考えながらブッシュミルを飲んでいたら、帰りにバーに財布を置き忘れた。
外に出て、5、6歩あるいて、あっ、いっけねー、と気が付いてバーに戻ったら、もう盗まれたあとであった。
その間、約1分。

なかにはクレジットカードや免許証やEFPOSがてんこ盛りになってはいっていて、そういうIDを悪用されると妹が「はっはっは、うつけものめ。おにーちゃんって、やっぱり、ほんもののマヌケなのねえー」とゆって大喜びしてしまうので、やむをえず警察に寄って盗難届を出した。
で、現金もはいっていましたか、と訊くので、
「6000ドルとちょっと、はいってました」というと、
顔をしかめて、なんで、そんなに入っていたんですか?という。
わしは、愚か者め、と考える。
「そういうことは、きみとは関係がないことだろう。大きなお世話だぜ。自分の仕事をちゃんとやれよ、バカめ」と、やや言い方がきびしくなってしまった。
免許証は5日くらいで紛失証明が出せる。
当座は紛失届けとして処理されて、誰かがクレジットカードを使おうとしたところで盗難届けに切り替わります、とたいして関心もなさそうに担当官が言う。

警察を出て家にもどってから、わしは、「日本ではああいうときに、警官に、バカ、とかゆえないのかもしれないな」とちょっとだけ考えて、考えたとたんに自分達を阻止するために隊列をつくる日本の警官たちにまで「自分達はあなたたちを個人として憎んでいるわけではないのだ」と意思表示しないではいられない日本のひとたちのことを思って、ちょっと涙ぐんだ。

いいじゃない、デモで政府が転覆しなくたって。
そうやって、あのジャーナリストのように、賢い、ものが見えるひとは、ひとり、またひとりと、立ち去っていけばよい。
そうやって少しでも計算が立つ「言の賢い人」が頭をふりながら、離れていって、
最後に残るのは、自分の顔がテレビに出てしまったら隣近所のひとはどう思うか、とくよくよ思い詰めている主婦や、上司がおれの姿をみつけたらやべーよなあー、と翼々とする臆病なうだつのあがらないサラリーマンのおっさんの「烏合の衆」だろう。

それが賢いひとびとにとっての夢の終わりであり、
愚者の群にとっての希望のはじまりである。

そして、そういう愚かな者たちの臆病な思いだけが、いつまでも「政府」という、絶対暴力の奴隷である怪物を歴史の終わりまで怯えさせてひきずっていくのだと思います。

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