クリスマスの朝

ひさしぶりにモニとふたりだけで朝食を食べた。
件のブーゲンビリヤが咲き誇る花棚の下のテーブルで郵送分のクリスマスプレゼントをふたりで開けながらのんびり食べました。

ファンテール
http://www.whiteherontours.co.nz/piwakawaka.html
は、ひとなつこい鳥なので、生け垣にじっと隠れているブラックバードなどとは違って、
ごく近くまで寄ってきて、モニとわしをじっと見ている。
きみがニュージーランドへやってきたとして、丘から丘、入り江から入り江へと歩く「トランピング」をするというと、枝から枝へ飛び移りながら、いつまでもついてきて、可愛い声を聴かせてくれるのは、この鳥です。
しっぽの羽根を広げると、扇のようなので「Fantail」というのね。

今年は、わしのわがままでクライストチャーチではなくオークランドでクリスマスを過ごすことにした。
妹は、「なんで、おにーちゃんのために、わたしが、あんな湿気が多いところでクリスマスを過ごさなきゃいけないのよ。フコーヘイだ」とゆっておったが、性格が悪いわりに地震を怖がるので、23日のクライストチャーチ地震のあとでは沈黙しておる(^^)
わしが事をよく知っておる妹なれば、わしのわがままを正当化するために、偉大な法力を乱用して地震を起こしたのかと邪推しそうなものだが、近代知性に毒されておるので、そーゆーコンジョワルが当然うたがいそーなことを疑わないものであるよーだ。
(もちろん、わしは冗談にも地震を起こしたりはしない。そーゆー悪事は神様がやることだとむかしから決まってます)

隣の家の生姜色の毛並みが美しい若い猫がやってきて、わしの足下にじゃれついてモニとわしにクリスマスの祝辞を述べておる。

遠くからクリスマスソングが聞こえている。
わしは、今年も、モニとわしにとっては良い年であって、こうしてまた静かなクリスマスを迎えられたことを神様に感謝している。

いつもは仲が悪いがな。
だいさんきゅだぞ。
神様。

言語は、夏の晴れた日に、高速で青空の高いところを巡航する積雲が地上に映す影に似ている。
自然が脳髄の表面に映し出す影が言語であって、シンボルの形をしたその影をとおして、人間はさまざまなことを考える。

ある人間が物事について考えるというときには、言語も彼女もしくは彼につきそって考えているのであって、よく観察していると、考えている主体も、語彙が含んでいる歴史的な意味や情緒それ自体と、脳髄の表面に射した影としての言語を機能させている個人と、半々である。
人間は言語がさししめしている方向を振り向いてみることは出来るが、その方向の遠くにあるものに目を凝らしてみることは出来ない。
人間を拘束しているものは肉体においては物理の法則だが、精神においては言語に他ならない。
言語は人間の精神の実体であるのと同時に人間の魂の牢獄でもある。
人間はときに世界の相対化を拒否して、絶対に、あるいはそういう言葉のほうが実感をもちやすければ狂信に跳躍することが出来るが、たいていの場合、そうした投企の試みは神の手ですくいとられてしまう。

ところで神にすくいとられた人間の精神の投企とは、人間性の無効化にほかならないだろう。

バネを奪われたゼンマイ仕掛けの人形、二度と箱からとびださないオモチャ。
言語に拘泥することには、そういう罠がつねにある。

遠くで「a king was born today」と歌っているアメリカ人の声がしている。
あれほど東洋的な考えが西洋人の世界に伝播したのは、結局は、西洋語のなかに神が内在していて、そこに「王のなかの王」が容易に屹立しえたからである。

どんな時代でも、西洋世界ではクリスマスは家庭内暴力がいちばん多い日だったし、いまでも、それは変わらない。
それは皮肉な言い方をすれば、本来は混沌でしかないこの世界に、神が過剰に存在してしまうからである。

「ガメ、踊ろうか」とモニがいう。
モニの頬に顔を近づけると、この世界でモニの体だけがもっている、あの良い匂いがします。
ようやく夏らしくなった、乾いた、あたたかいそよ風が吹いてきて、モニの長い髪をとおりぬけてゆく。

神様がいてもいなくても、どーでもいいいわしも、
クリスマスには特別な気持ちになる。

自分ではなくて、言語の世界の外側の、なにごとかが、この世界を祝福しているような気がするのです。

Merry Christmas.

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