友達を捨てる50の方法

ラグビーのワールドカップなので、あの見るからにくさそー(実際にやると、ほんとに臭いです)なスポーツが好きな妹がニュージーランドに来ておる。
ワールドカップ期間中は宿泊代が3倍だというので、ひっひっひ、ざまーみろ、正義とおにーさまは勝つ、とほくそ笑んでいたら、わしのパーネルの家(いまの家のひとつ前に住んでいた家です)に滞在してしまいました。

鍵を変えておけばよかった。
ぬかみそのようにぬかってしまったではないか。
あの「糠よろこび」という叔父の好きなインスタントぬか漬けは、いまでも売っているのかしら。

リミュエラのモニとわしの家からクルマで5分という立地に陣取って、わしが大事にしているクルマを勝手に運転してギアを入れ間違えて「ギュワン」とゆわしたりしながら、ラグビーを観に行くあいまにわしの家にくる。
(正式試合は昨日からだが、エクスヒビション試合とかは、前からやっておる)

多分、偉大なおにーさま(わしのことね)にコンプレックスがあるせいだと思いますが、テーブルの向こうに座っては、わしの悪口をゆって、きゃっきゃっと喜んでおる。
今度結婚して妹の足に踏みつけにされたまま一生をだいなしにしようとしている気の毒な「婚約者」のにーちゃんが、横でばつのわるそーな青い顔をして、かたまっています。
凍れる微笑、であるな。
気の毒に。

「おにーちゃんの友達ってさ、むかしから、全然、顔ぶれが変わらないじゃない?
おにーちゃんの人間としての進歩のなさの日常的な表現よね」
と、妹がゆーのであった。

わしは、マンダリン・オレンジ、すなわち、みかんの皮をむきながら、眉をひくひくさせるが、しかし、妹の主張自体は正しいのであって、友達というのは本来、成長するにつれて変わってゆくべきものです。
自分の精神が成長するにつれて、かつてはあれほどお互いに理解しあって共生の感覚を分かち合っていた友達と話があわなくなってゆく。
ふいに相手が退屈な人間になったように思われ、どうしてこのひとはいつまでも同じようなことばかり繰り返すようになったのだろう、と考える。

ふつうの友人関係というものは、そーゆー展開になるべきものだが、わしの友達は甚だしきに至っては3歳くらいのときから付き合っているのまでいる。

動かぬ証拠じゃねえか、シンミョーにしやがれ、という銭形平次の声が聞こえてきそうであります。
天網恢々疎にして漏らさず、なあーに、お天道様は知らないふりをして、ちゃああーんと見ていなさるんだ。
悪い事をするなら、お天道様が出ない北欧の冬でやってね。

わしは何よりも孤独を尊ぶので、はっきりゆって、友達などは邪魔である。
そんなもん、いらねー、と思う。
ひとと話をしたり、一緒に歩いたり、共に肩を並べて戦ったりすると、思いもかけず、「友達」が生じてしまうが、自分から友達をつくろうと思った事はありません。
例のなんでもかんでもメールで知らせてくれる日本語インターネットを通じて知り合ったひとが、前にコメント欄かなんかで会ったことがあるような気がするodakinという人が「底意地が悪い」と、どっかのなんかで、わしのことを表現していたというが、あたっておる(^^)
のみならず、わしは人間が冷淡なのでもあるよーだ。
人間関係にエネルギーを使う必要というものがよく判っておらないので、誰かと団欒を楽しんだり、そのときどきの愉快な会話の場を共につくりあげたり、というようなことは大好きでも、それ以上のつながりを他人と持とうと思ったことはありません。

それなのに、3歳のときから一緒であって、いまでもロンドンのセント・ジェームスというような干からびて時代遅れな通りのビルの二階で会えば、会ったばかりの瞬間から、もうそこで何時間も話し込んでいたひとのように、ふたりでひとつの沈黙を共有し、お互いの顔を肴に、ブランディを手のひらのなかで暖めながら、外の雪、というような話題について、何度もつかえながら、吃音をはさめて、まるで言語に障害があるひとびとのようにただ巨大な沈黙をふたりでつくろうとでもしているかのような会話を、とつおいつ、お互いに、こいつはやっぱり仕方のないやつだなあ、というやさしい気持ちで胸をいっぱいにしながら、際限なく酔っ払ってゆく、あの「友達」というものにいまでも会いにゆくのです。
友達というものが生じてしまうのは、人間の言語の成立事情に由来する「個」としての人間からすれば人間性というものの一種の弱点、欠陥、なのかもしれません。

そうではあっても、友達というものはもたないですめば、そっちのほうが良いに決まっている、という人間の法則は変わらない。

1 くだらない人間と付き合う人間とは付き合わない

2 他人の人間としての生活を脅かすものを許容した人間とは付き合わない

というような、いくつかはある「こういう人間を友達に持ってはいけない」という自分に守らせることにした決まりに順って、友達でいられたかも知れない人間との関係をぶちすてねばならないこともあります。

人間は、弱い。
人間は、自分と異なるものも受け入れよう、というような一見、寛容と見える物にひかれたとき、最も堕落しやすい精神の状況に陥る。
目安は簡単で、「自分の価値観と異なるものを受け入れる」寛容というものは、それを受け入れることによって、引き換えに、自分にとってかけがえのないものの幾分かが失われる痛みを伴うのでなければならない。
異なるものを受け入れるときに、そういう存在を賭けた痛みが伴わない場合には、それこそ、賭けてもよい、それはきみの精神が言葉の深い意味での「気取り」から堕落してしまっているだけのことです。

決定的な喪失の痛みを伴わない寛容は、あたりまえだが、自分にとって寛容と見えるものも、神から眺めれば、ただの薄汚い頷きあいにすぎなくて、昔から、自分を神と仮装した悪魔が信奉者をつくるのに使う常套の手段である。
世の中に「寛容」ほど、その本質が腐敗して変質しやすいものはないのです。

心の柔らかい教師が最も陥りやすい罠は、学生の(学問的)興味をかきたてつづける教師であろうとして、場末のスタンダップコメディアンでもあるような、一場の余興を提供する芸人に堕してしまうことだが、そういう心根のありかたが、「出来は悪いが、よいところもある」人間に胸襟をひらいてやろう、というようなときにも、たいていの場合、もう本人の魂は泥にまみれていて、寛容とは名ばかりの、垂直に聳え立つ物はすべてひきたおそうとする、あの暗黒に満ちたものの重力に身をまかせる、怠惰をむさぼっているにすぎない。

「友達」なんていうものがない世界に住めたら、どんなにいいだろう。
少なくとも、わしは、友達をつくらない努力の正しい在り方や、友達をいかにして生活から排除するかについて「50の方法」が記されている本があれば、バルセロナの裏通りで60ユーロの「悪魔を召喚する方法」という本を小躍りして買ったときのように、欣喜雀躍して買うだろう、と思います。

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