余白に記された神について

神が意識をもっているとすれば、その意識を形成している語彙は人間の語彙が知覚する対象の集合よりも大きくてしかも稠密な集合でなければばらない。
しかも、神が絶対の存在である以上、その言語は相互の意思疎通を前提としない、純粋に思惟のために機能する言語のはずである。

そのことから導かれる結論は、人間にとっては真に恐るべきものであって、神は人間の意識から見れば、理解を拒絶した巨大な狂気でなければならないはずである。

宗教が狂信なしに成立しないことは、ほぼ自明だが、この「自明な事実」にいつも脚注のようについてくる「教団の初期においては」という説明は、ほんとうだろうか?

どの教団も歴史的には経験している「狂信」は、実は教団に本質的なものではなくて「神」というものに本質的なものではないのか。

仏教は常に宗教の「例外」である。
そこには、どんな種類の狂気も存在しない。
あるのはただひととしてシッダルータがもっていた狂気だけです。
シッダルータの言葉は、論理的な冴えに乏しいが、光に満ちていて、どんな人間にも自動的に「知性」というものを連想させる。
救いのまったくない絶望を語りながら、釈迦に依って説明される世界に安らぎが満ちて、やさしいのは、シッダルータが説いたものが宗教でなくて哲学だったからだろう。
インドの土地には、いまでも哲学を宗教として死んでゆけるひとびとがいるからである。

「遠くから無言で見つめるやさしい眼差し」をもった神などは、いいかげんな気持ちでそれまでの人生を過ごしてきたものの自らの甘えの反映が自分の感覚に引き起こした極めて通俗な幻覚にしかすぎない。
宗教が狂気であることを理解できない人間が、どうやって神に近づいてゆけるだろう。

定理1: すでに神は昏倒している。

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