放射性の午後

クラブからクラブへとモニとふたりでふらふらと遊んでばかりいたので脳が溶けて半分くらいになったような気がする。
昨日も交差点で信号を待っていたら、モニがわしの耳をじっと覗き込んで、向こうからタクシーが来るから危ないな、とつぶやいて喜んでいたが、これは妹がむかしわしを馬鹿にするために発明した冗談であって、どうも妹とふたりで買い物に行ったりしているときに碌な話をしておらんよーだ。

半日、日本の状況について頭をアップデートして、昨日は日本の事をたくさん考えた。
就中、インターネットで知り合った友達たちのことを考えた。
ナスどんは、子供をふたり神戸に預けたまま、青山通りの舗道をみつめて歩いているのだろうか。
どうしよう、いったいどうすれば娘達を救えるだろうか、と悩んでいるだろうか。

真におそろしいものは目には見えはしない。
Nasuの青山のアパートの窓から見える東京は静かで平和な街だが、セシウム同位体とストロンチウム同位体で、Nasuの国の政府の落ち着き払ったウソよりも汚れている。出来るものなら、食べることも飲むことも息をするのをやめたいと思う。人々の「落ち着き」は怯懦にすぎず、その社会をつくりあげた無責任なやつらは、そんなことは言ったことがないとでもいうような顔をして話題を変えてすましている。

チャンネルを変えるように、(言語を変えて)違う世界の影を脳髄に映すことも出来る。
手の施しようがなくなって、殆ど運まかせにするしかなくなった、あるいは国中を汚染することと引き換えに他国に納得してもらうしかなくなったフクシマの原子炉のことも、初めの会見から世界中のひとびとがなんというウソツキだろうと呆れかえっていたエダノというひとに「さん」までを付けて、拍手し続けた挙げ句、放射性物質のなかで身動きできなくなってしまったひとびとのことも、リモコンのボタンを一押しするようにして心からかき消してしまうことも出来る。
だが、それが出来やしない。
日本語が棘のようにきみの心にくいこんでいて、どうやってもとれない。
言語的「万能とげ抜き」はないものか。

原子力は、あんまり勉強したくない科目である。
あれは「イモ科学」だという、わしの学校特有の偏見があるからね。
(多分、それがいちばん大きな理由だろう)
それでも、他のすべての科学的方法を身につけたひとと同じように、こういうことは判る。

「低放射線を長いあいだ浴び続けるのは健康に極めて有害である」という意見と
「低放射線を長いあいだ浴び続けても健康には問題がない」
あるいは
「低放射線を長いあいだ浴び続けるのは健康に良いかもしれない」ですら、
科学的には正しい。
3つとも正しい。
なぜ?

データがないからです。
正当な判断をするに足る歴史的に蓄積されたデータがないし、その上、日本の外では、この頃は前には(詐欺師根性まるだしの「発表」とは異なって)ゆいいつ信頼されていたPDF数値データも、だんだんおかしいのではないかとゆわれるようになってきた。
物質量の比率に矛盾があるからです。
なんだか、全然信頼できない数値なのではないか。
なんじゃ、これは。
数値を改変しているのではなくて黙っていることがあるよーだ。

高放射線に関してはヒロシマナガサキと、それよりは遙かに被曝規模もサンプル数も少ないがネバダの実験場で爆心地に突撃させた兵士たちのデータが貧弱ながらある。
しかし低放射線に関してはチェルノブイリの後でも信頼しうるデータは皆無といってもよい。
「危険だ」という確固としたデータがない場合には科学の世界では「危険はないと思われる」とゆってもいいことになっている。
そこが芸というものであって「と思われる」を省いてはダメです。
日本からのニュースを見ていると、省いてしまっている「科学者」もいるよーだが、それは詭弁のルールを知らない、というべきである。

安全だ危険だと議論しているひとびとをたくさん内包したまま東京はどんどん汚染されてゆく。やがて北東からふきつける強い風がふくだろう。

真におそろしいものは目には見えはしない。
福島に嫁いできた若い娘の足首をつかんで離さない言葉にしてすら言われない「人間を土地に拘束する力」は誰にも見えやしない。
転勤希望を出した仙台の若い男の教師をいないあいだに罵りの言葉とともに机を蹴り上げていった教師を突き動かす力は目に見えはしない。

職業や両親や子供の教育を「考えて」母親をすんでいる土地に絡め取ってしまう力は目に見えはしない。

科学者に訊いてみたまえ。
「教えてください。10年という時間のなかでは、わたしは、結局このまま癌で苦しみながら死ぬことになるのですか?」
科学者はあごをひいて、あるいは威厳を修整して、もしくは微笑しながら、「そんなことはありませんよ、あなた」というだろう。
「私の科学の知識に掛けて、この状況は危険とは言われないと思います」

そうして、いつのまにか生物濃縮などありえないことになった魚を食べ、牛乳を飲み、牛肉を食べて、どんどん体内に死神を濃縮しながら、また日本のひとたちは平穏な新世紀への標本動物としての生活に戻ってゆくに違いない。

そんなふうに日本について考えながら、知り合いのワインバーに行きました。
そこは日本のように蝶ネクタイをしてパリッとしてカッチョイイソムリエではなくて、パンクにぶち壊れたジーンズに「知るかよ、バカ」と書いたプリントのTシャツを着た、だが、この世のワインを全部知ってるんちゃうか、といいたくなるくらいワインのことならなんでもかんでも知っているソムリエのにーちゃんが、キチガイロックンロールをぎんぎんにかけながらやっているバーであって、わしらは気があう。
わしが教えてやったトマトソースと卵のレシピで、かっちょいいタパをつくる。
おれは明日から旅に出るのだ、とeメールが来たのでお別れを述べにやってきた。
「突然旅に出るなんて、どーしたんだ?」と訊くとバクチでカネをすったので店を売った、というので笑ってしまった。
がっちし握手して、また会おうな、をしてきた。

それから北欧人のバーに行って、カクテルを飲んだら、なんだか夕飯を食べる気はしなくなってしまった。

モニも同じだというので、夕飯はまた夜中に出かけて食べることにして家に帰ってきた。

日本のひとは誰も思っていることだろうが、わしも、まさか日本全体が濃縮された放射性物質の実験場となる日がくるとは思わなかった。
なんだかワインの瓶を壁にたたきつけて泣き崩れたいような発作に襲われます。

画像はマンハッタンのあちこちにある核シェルター。
むかしから、これを「こえええー」と思ってみていたのに、身近な友人が現実に核の恐怖に怯える毎日になってしまった。
SFみてえーと思います。

ばかやろー。

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One Response to 放射性の午後

  1. なたり says:

    素敵な記事の宝庫。
    ver.5も読み進めているところです。ver.5では挿入された画像が見えないけど、こちらではそれが見えるのが嬉しいです。
    でも、ver.5には素敵なコメントがいっぱいで、こちらを読んでもそのコメントを読みたくなってver.5の同じ記事を検索しに行ってます^^

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