時間を取り戻す_経済篇

英語ではconfidenceという。
confidence、という言葉を見て「自信」という日本語が頭に明滅してしまったひとは、もうそこで大誤解が始まってしまっている。
一回深呼吸をして、そーか、 confidence、という言葉があるのだな、と思ってくれるのでなければ困ります。

「経済」というものは一面、政治のように信条によって一致することのない、さまざまな思惑をもつ人間の心理の複合体だが、この confidenceはいわば経済という欲望と恐怖心がないまぜになった巨大な乗り物の燃料で、これによって経済は動く。

confidenceが高まってくれば投資家は投資し、ビジネスマンは「いよいよ貿易風がふいてきたぞ」とつぶやいて、帆をあげて出帆して事業拡張の冒険に乗り出す。消費者は猛烈な勢いで物欲のトローリー(カート)にものを積み上げてレジに並ぶ。

一方で市場が冷え切って困憊しているときに、なんらかの理由によって合理的なconfidenceを獲得しているひとは比較的簡単に市場における勝者になってゆく。
ひらたく言えば「金持ち」になります。

日本の経済が凋落したのは、そして、その低落の谷間から抜け出せないでいるのは心理的には無論このconfidenceが失われてしまったからで、あたりまえだと思うが、経済を再建したいと思えばどうすればそれが再び獲得できるか考えないと仕方がない。

日本にいるあいだ、「どうしてこの国のひとびとにはconfidenceがないのだろう」と考える、わしの眼についたのは、日本という国に参加している人間全体の「途方もない忙しさ」と「空間のなさ」でした。
へっ? そんなことが経済と関係あるの? というひともいるのかも知れぬ。
おおありなんです。
急に訳のわからない不公正ないちゃもんをつけにくるのでおおありくいは嫌いだが、おおありはおおありなんだから仕方がない。
お話をつくるのが上手だとゆわれているしな。

時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。

日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。

ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。

文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。

confidenceというものは、いったんなくなってしまったところからは、世界との距離が少しあって、自分を取り巻く世界のさまざまな要因を「世界が動いているのとは異なった時間のなかで」観察し考えてみないと恢復できない性質のものなので、3時間ぼんやりと海が見られないひとには再獲得できない性質のものである。
世界と同じ時間で自分が動いてしまうことを、多分、日本語では「流される」というような言葉で表現するのだと思うが、言い得て妙であって、自己の意識としての時間の流れと世間の時間とが一致してしまえば、「個」というようなものはなくなって、流れのなかで溺れてしまうだけである。

しかし、そんなことを言っても、おれはビンボーヒマナシで時間がないんだよ、というひともいるに違いなくて、実はそれは正しい、というか、経済上は重要なことを示唆している。

「賃金が安い国は賃金が安い国との競争になる」
というのは別に経済の知識がなくても直感的に明らかだと思うが、デジタル製品がその良い例で現代の経済では「ものをつくる」社会は際限のない低価格競争に必ず巻き込まれる。すると必然的にその市場で労働するひとの賃金は安く抑えられ、安い賃金で労働するひとの社会では時間が失われ、confidenceも失われてゆく。

おもいきって高い賃金を支払うことに決めた社会では、通常、知財産業か知識集約型の社会にならざるをえなくなってゆきます。
むかし、工業に職人的要素が残っている頃は、そうでもなかった。
前にも書いたことがあるが、レクサスの熟練工員はボディの表面を手でなぞってみて、ミクロンの単位の凹凸がわかる。
日本と並んで(といっても日本よりはややうまくもちこたえているが)製造業にしがみついて将来を失いつつあるもうひとつの「先進国」であるドイツ人は、さまざまな職人的な工夫によって機械に「文化」をしみこませるのに巧みなので有名である。
そういう「質の差」によって高利益をあげることが可能だった。

義理叔父が「どエクセル」と呼ぶ、中国の「KINGSOFT OFFICE」の表計算ソフトは、使っている方から見ると、通常のビジネスで使っている限りマイクロソフトの「エクセル」と何も変わらない。
インターフェースも同じならデザインまで同じである。
中国製の、いま名前がちょっと思い出せない4輪駆動車はどこからどうみてもトヨタの「ハイラックスサーフ」と同じクルマだが、ひとつだけ違うところがあって、オフロードはおろか坂があがれない。
乗り心地、に至っては尾てい骨クラッシャーとゆわれたロシアのラーダ(わしが子供の頃はまだニュージーランドの道路を走っていた)よりまだひどいといわれている。

でもキングソフトの表計算はエクセルと同じ関数式を入力しても計算を間違ったりするわけではない。
ふつーに使えます。

ところが、クルマをつくるためのジグもデジタルデザインできるようになってゆく。ラインが自動化されロボットが導入されるとアナログ要素は極小になってゆく。
人間の能力に依存しなくなってゆくと、「安くする知恵」があるほうが勝ちます。

これも前に書いたように、日本の経済は「ものづくり」にこだわる限り必ず中国に大敗する。大敗するのみならず、ものづくり社会として同質なので、併呑の憂き目をみることになると考える。

暇がないのがビンボーなせいならば、思い切った高賃金を払わなければならない。
それも若い世代に払わなければならないのは「トザイケーザイ」の記事に書いたとおりと思う。
そこから生まれる人間として過ごせる「時間」だけが、社会のconfidenceを生み、経済再生のドアを開ける。
一国の経済にとってはおもいきった高賃金に移行するというのは、個人の懐を豊かにする以上に「社会の体質を変える」ひいては「産業構造を改革して別次元に移行する」というたいへんに大きな意味がある。

空間のほうは、いうまでもない、というか、日本や北欧の都市くらいひどければ人間としての気持ちなどもちようがない。
日本や北欧で「空間」がものすごく高価なものになってしまって、人間が呼吸するのもたいへんな有様になったのには、北欧においては過大な社会保障、日本においては農家への補償がその最も大きな理由と思いますが、今日は気が遠くなるようなすみれ色の青空の夏の日である。
遊びに行かないわけにはゆかないので、残りはまたこの次。

(03/January/2011)

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