杖を捨てる

毎晩毎晩友人たちと会って遅くまで遊んでいるのでわしはだんだんヘロヘロになってきた。モニさんは、結構へーきです。
日本では冬のやまねのように眠っておったのに、クライストチャーチでは俄然元気である。
のみならず、東京ではずっと、すこ-し透き通っているような青ざめた白い磁器のような皮膚の色であったのが、うすい薔薇色がさして別のひとのよーである。
肌の色は、わっしも赤くなったがの。
くびの後ろが赤くなって、妹に「おにーちゃん文字通りレッドネックよねー、だっさーい」とゆってバカにされた。

とっても、くやしいです。

町中が遊んでおる。
当たり前だが、レストランもいまごろは混んでおるの。

モニとわしがクルマで町を走っていると交差点でクルマが止まるたびに前を走っているくるまの後ろ座席のドアがピャッと開く。
高校生の女の子がふたり、ぱっと飛び出して、ひとりがボンネットに仰向けになり、もうひとりはそれに覆い被さって「正常位」で腰を動かします。
前の座席にはやはり高校生の男の子がふたり乗って笑いころげておる。

アホですのい。
鉄道の線路を越えてから、ずっとやっておった。
クルマが止まる。
ドアがぴゃっと開いてきゃあきゃあゆいながらふたりで走って出てくる。
ボンネットで正常位の体位の実演をする。
信号が緑に変わると出て来たときと左右逆のドアにきゃあきゃあゆいながら戻る。
ただこれだけのことを、延々と延々とやっておる。
モニは呆れてましたが、わっしは笑ってしまいました。
このアホっぷりには覚えがあるからな。

前にも書いたがなにしろ高校生の頃は男も女も「やりたいさかり」なので、たいへんであった。
ただもう闇雲に押し倒したり押し倒されたりしておった。
疾風怒濤のアホぶりです。
アホすぎて土曜日の朝ともなればチ○チンが耐用限度を越えて痛くてぶっちんだりしておった。凹側のみなさんも、さぞかし痛かったであろう、と思い出すとどーしてそこまでアホになって探求心の虜になれたのかいっそ不思議である。
あれら凹友達も、いまは下っ端弁護士になったり新米医者になったり奥さんになってガキを増産体制にはいっていたりで、すまして暮らしておるが、仲間であるとはいえ、やはりアホだったのい(^^)
ほんまに、しみじみバカだったと思います。
大過なかったのは、ひたすら運が良かっただけである。

ずっと前に書いた記事の「全勝礼賛」のようなのを読み返してみると、
しかしアホばかりの国に育って、つくづくよかった、と思わないわけにはいかない。
ここにいると、日本にはたくさんいる「頭がよい人間」の恐ろしさ、いやらしさというものがなんだか悪夢のなかの怪物たちのように思い出されます。

日本のひとは頭がよすぎる。
よすぎる頭を持てあまして、どうやったら安全に世の中を渡っていけるかばかり考えているようなところがあると思う。
遊びに出かけた町のホテルのちっこい液晶テレビをつけると、子供がいっぱい並んでインタビューを受けている。
なんのこっちゃ、と思って見ていると、そのお子様軍団は中学入試の「戦士」なのだそーであった。
インタビュアの若いおばちゃんが「きみは、将来なんになるの?」と訊くと
「灘中へはいって東京大学の文科一類に行って在学中に司法試験に合格して財務省にはいるのがぼくの夢です」という。
もうひとりのガキは「ぼくは東京大学の理科一類にはいって、グーグルに就職するのが夢です」とゆっておったが、このガキの「夢」にスケジュールされているとしったら、
ラリー・ペイジは泣くであろう。
嬉し泣き、という考え方もなくはないが、ま、会社からいうとこーゆーガキに誉めて貰う、というのは死刑宣告みたいなもんだからな。
「頭のよいひとびとがゴマンといるグーグル」
ははは。悪夢だのい。

曾野綾子のような人間が「高名作家」であるような社会では、ボンネットで股をぴゃっと開いて遊んでいるような高校生の女の子たちは、強姦されたがっているのである。
自分で望んで強姦被害にあったのであって、「欧米の常識を知らない」バカ女です。

わしが見てもこのガキ女どもは実に下品で不埒なので是非曾野綾子先生にクライストチャーチに来てもらって、「わたしは日本人だが、あなたがたは欧米の常識を知らなさすぎる」とゆって説教してもらわねばならぬ。
オーストラリアやニュージーランドはシンコーコクだから欧米の常識が通じないのです、とかゆいそうだのい(^^)
「欧米の常識」というのは、まず第一に「人間は失敗するものだ」ということです。
第二には、ちょっと転んだくらいなら見て見ぬふりをしていても良いが、派手にすっころんで骨までおっちったような人間はみなで寄ってたかって助けねばならぬ、ということである。
転んで骨が折れてしまった人間を目の前にしてもなお、「賢人の書」を手にして正しい骨の接ぎ方についてご託をたれる人間は「バカ」とみなされるのでなくてはならぬ。
迅速に医者とカウンセラーのいるところに移動させてレイプキットが適用されなければならない。
繰り返し、徹底的に「あなたが悪いのではない。強姦には『被害者の落ち度』などというものはありえない。あなたの頭から犯罪の影響が消え失せるまでわれわれの社会は全力をつくすから、心配しなくて良い」とわしらの「欧米の常識」を再確認させなければならない。
曾野綾子という、ニュージーランドにもどって思い出して見ると、「カソリック作家」という姿をした悪魔そのものとしか思われないおばちゃんのことを考えていたので、性犯罪のことになってしまったが、実は、こーゆー問題は、日本の社会では根が深そうです。
「失敗をしないように準備する」ことが日本人の一生ではたいへんに重要であるように見えます。それが度を越して神経症的になっているのが、わかっていないのではないか。

ニュージーランド人のビジネスマンに「なんで会社もってんの?」と訊いてみるとよい。
まず皆が「つぶれたときに、おれに責任が及ばないためさ」というであろう。
次が、「見栄えがいいかんね、個人営業より」ぐらいか。
ところが日本のひとは常識として知っているらしいが、日本では銀行からカネを借りると「連帯保証人」という全然訳のわからねえ制度があって、会社がつぶれたら借金を社長個人がかえさなければならないのだとしって、ぶっとんだことがある。
ここのコメント欄に来る「じゅん爺」も北陸銀行のカシコイ支店長のおっさんに、
「借金返せないんだから、もうそろそろ死ねば?」とゆわれたそーだ。
日本では銀行からお金を借りるときには会社がつぶれた場合のことを考えて、連帯保証人の社長個人がどういう状況になっても借金だけは返して「他人にも迷惑をかけなくてすむ」ように自殺すれば丁度返せるだけの生命保険に強制的にいれる、という賢くも親切な制度があまねく普及しておるのだな。
頭が、いいのい。
日本人の頭のよさ、用意周到さは神のようである。
強姦被害にあうようなバカ女なんて日本にはいらん、と社会が言う理由がよくわかるのい。
論旨に一貫性がある、というべきである。

考えてみると、日本の社会というのは一種の「杖屋さん社会」である。
中学入試が近づいてくる頃のガキどもにとっては、「きみの人生に最適の杖」という選択が待っている。
失業がないお医者さん、とか、給料が減らない弁護士、とか、一生カシコイカシコイとゆってぱちぱちしてもらえる上に失敗しても絶対に自分では責任を負わずにすむジョーキューコームイン、とか、杖がいっぱい提示されておる。
「奥さん」とか「子供の通っている学校」とかは、ま、杖の頭につける飾り、みたいなものなのだな。
女子高校生が携帯のアンテナに付けるチャーム(日本語ではなんか違う単語だったが思い出せん)みたいなものなのでしょう。

ははは。先生。出来ました。完成です。
私の「絶対失敗しない人生第1号」が今夜、出来てしまったではないか。
女房ですか?
ばっちしでんがな。
もちろんちゃんと調査会社に頼みましたとも。
素行良好。
思想も健全。
愛読しているのも曾野綾子先生ですから。
夜遊びなんてとんでもない。
近頃ではなかなかない出物なんです。
こういう話しは声を潜めなきゃならないんですがね、しかも、あの、
(低めた声で)
処女膜付き、だったんですぜ。
ええ、もう、ばっちり。

そうして日本人は「転ばぬ先の杖」を握りしめて、転ばぬことだけを人生の大望にしてめいめいの人生に向かって出発してゆく。
わっしの観察では、どーも、転ばないこと以外には人生の目的がないよーだ。
しかし、自称はニュージーランド人だが、ほんまは連合王国人(内緒よ)なのに「欧米人の常識」を著しく欠いているらしき、わしは思うのね。
転ばない人生なんてくだらねーよ。
転んで学習するから人生になるんです。
転ばなかったら絵に描いた餅をくってんのと同じでねーか。
ニュージーランドには、ボンネットで「はめはめごっこ」をしているねーちゃんがいるから強姦してもいーわけだ、と考える曾野綾子先生のような品性下劣な人間はいないが、仮にそーゆーケダモンじみた考えの人間がいて女の子たちが被害にあっても、
社会は全力で女の子たちを助けるであろう。
だって社会というのは、ほとんどそのためだけにあるんだからな。
しかもそれは女の子たちのため、なのではないのす。
一回盛大にすっ転んだ人間を助けられるか助けられないかは、
あるいは第一ラウンドでマットにのびちまったけどカウントテンになる前にふらふらだが立ち上がった新米ボクサーを勝たせられるかどうかには、
よく考えてみればわかることだが、
その社会が自由社会でいられるかどうかのすべてがかかっている。
新米国民たちが、どんなに無謀なジャンプをおこなって、どんなに無謀なスピンをしながら空中ブランコから空中ブランコに跳び移っていっても、ブランコに立って下を見れば口を広げている底深い闇の向こうに健全な社会には必ず大胆な空中ブランコ乗りたちの命を助けるためのネットがある。
あまりに高いところに立っているので勇敢なブランコ乗りたちの眼には見えないが、必ず社会のネットが下にある、と信じられるから、その社会の若い人間は冒険にでてゆけるのです。
その「冒険」のことを英語では「自由」と呼ぶ。

英語では(あるいは日本語でもそうかもしれぬが)「賢い人間」というのは、ほんのちょっと言い方を変えると「皮肉屋のバカ」という意味になる。
賢い人間は往々にして杖ばかりを見つめていて、地面がくずれだしていることに気がつかないからです。
二本の足で地面に立てる人間は杖をへしおってしまったほうがよい。
走ってみればわかるが杖など健康な人間にとっては邪魔なだけである。
第一、若いもんが杖をついている姿は、かっこわるすぎである、と思いませんか?

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