B.K.

染みのあるものが嫌いなんだな、というのが、わっしが日本語を勉強しはじめた頃の日本のひとたちへの印象であった。
「純白」が好きであるよーだ。
ピュア好みです。
清浄学園だのい。

ヘンなんだな、というくらいのことでその頃はすませてしまったが、どうも、この問題は初めにわっしが意識していたよりも遙かに深刻なよーだ、と最近考えます。

日本では人間というものは「原則として失敗してはいかんのだ」ということになっているのではないか。
ふんなバカな、と思うが、そう思って日本の社会を観察するとますますそう見えるのです。

公平を期するためにゆうと、わっしは「失敗を許さない」人間を反社会的存在と見る社会に育ちました。
わっしが育ったその社会は日本のひとの定義に照らせば「失敗者の集まり」であって「賢くない人間の集合」としか言いようがない社会である。
もっと言うと、日本のひとたちの証言によれば世界的にも優良で一二を争う高水準民族である日本民族の基準に照らせば、わっしらは「DQN」が寄り添って国家を自称しているに過ぎないよーなもののようです。
日本のひとはカシコイからな。
ダイジョーブ、そんなに口から泡をとばしながら絶叫しなくても、世界中のひとがみんな知っているだよ。日本の人、賢い。
(ぱちぱちぱち)

ひとつ、例を挙げさせてください。
わっしが仕事上、会計の関連で、もっとも信頼しているひとは28歳の女のひとです。
国際会計上の難問が生じると、わっしはこのBKという友達に相談する。
両親がスウェーデンからわっしの「旧母国」に移民してきた。
いつもそれをネタにしてからかうが、なんとなく全英語世界のヲタク男の性的ファンタジーに出てくる「スウェーデンのねーちゃん」を現実化したような趣のあるひとである。
眼の覚めるような明るい金髪で長身で明るい灰色の瞳をしておる。
ちょっと見た印象は「プレイメイト」なひとなんです。
もっとよく見ると、眼の輝きが知的なひとのそれであって、性的ファンタジーの対象であるよりはビジネスパートナーのほうがしっくりくるのはアホでもすぐわかるがな。

独身だが14歳の娘さんがいます。
娘さんを出産したときのことを回想して「出産というより細胞分裂だわね」と、とっても危ないジョーダンをいう。

パーティで、生まれて初めて飲んだカクテルで酔っ払って上級生の男の子とふざけて二階の寝室で性行為の体位をとった。ディープキスをした。
その上級生の男が突然、自分のニッカーズに手をかけて取り去ったときには、断固として抵抗したほうがいいのか、そーゆーことを言うのはダサイことなのか、「混乱してわからなかったのよ」とゆいます。
やっと我に返って、ちゃんと頭が動く回路のスイッチがはいって「必死に抵抗しようと決心したときには、もう相手のペニスがわたしのなかにはいってたわ」とゆう。
BKは妊娠した。
「上級生の男」は、自分が必死でお金を集めて堕胎の費用を調達するから安心しろ、とゆったそうである。

必死に考えて、産むことに決めた。
父親も母親も、BKが出した結論を聞いて、わたしたちが全力をあげてあなたを守るから、あなたも強くありなさい、とゆった。
でも、次の夜、トイレに起きたBKは両親が抱き合って声を殺して慟哭しているのを見てしまいます。

自分が恥ずかしくて学校に行けなくなった。
外にも出られなくなります。
何回も死ぬことを考えた。
死にたいという言葉ばかりがリフレインになって、一日中そればかり考えていたそうである。

しかし、そこがBKの人間として真に偉大な点であって、まだたった14歳だったBKは子供部屋で必死に考え抜くことによって、死神の囁きに打ち勝つのだ。
幼いBKを助けたのはボクシングが好きな義理の叔父のひとことであったそーです。
そのひとは「一流のボクサーは、初回でダウンしてマットに沈められたからといって諦めたりしない。ムハメッド・アリというおれが好きだったボクサーは初めの試合の第一ラウンドでノックアウトされたが諦めなかったぞ」とゆった。
あとでアリの伝記を読んだら全然、とーんでもないウソだったわよ、とゆってBKは目尻の涙を拭いながら笑います。

でも、わたしは、その決してよく出来てさえいないウソで助かった。
人間は必ず失敗するんだ、わたしは初めの第一歩でたまたま失敗しただけだ、と思った。
わたしは運が良かった。

そ。
わっしはこの記事を11月30日の記事「野蛮」
野蛮
の続きとして書いているもののよーだ。
あの「曾野綾子」というひとの最も悪魔的な点は、「人間の失敗を決して認めない」っちゅうか「いちど失敗した人間は、もう生きる資格がないのだ」とゆっている点であって、それが、わっしを激昂させたんだすな。
こうやって書いていて、やっと、わかりました。

人間には失敗する権利がある。
15歳の女の子がおとなたちが眼のやり場に困るような短いスカートで学校に通うのは、あとで考えると当の本人が恥ずかしくて全速力で雪のなかを走りたくなるほどカッコワルイ大失敗かもしれないが、だからとゆって、それが強姦されてもしかたがない理由になるわけがない。
たとえ、「強姦の被害者になる確率はスカートの丈に反比例する」という曾野綾子の新理論が真実であっても、である。
人間には失敗する権利がある。
みなに祝福されておおがかりな結婚式をあげた新婦には、結婚相手に失望して結婚早々の一ヶ月で離婚する権利がある。
「寿退職」で仕事をやめた社員には、専業主婦の生活に退屈して復職する権利がある。
高校生のときに勉強に興味がもてなかったが40歳になって急に世界を説明する知識というものの魅力に勝てなくなったおっさんには学校にもどって勉強をしようとする権利がある。
ありとあらゆる「敗北者」には、もういっかい人生をやってみる「権利」があるのです。
考えてみればあたりまえです。
人間は必ず失敗をする生き物であって、もっというと失敗をしないことを念願にして失敗を実際にしない人間になどなんの本質的な生産的価値もあるわけがない。
ことなかれ秀才というものが掛け値なしのマヌケであるのはことわりの赴くところトーゼンである。
人間は何回か失敗するものであって、そのうちの「一敗」が初めに来たからとゆって、それは純然たる確率の問題にすぎない。

わっしは70年代の日本の雑誌を読んでいて、「どうやって(自分が結婚してもよいだけの資格がある)処女を見分けるか」という記事の氾濫に気分が悪くなります。
日本のひとは、そこまでの頭の悪さはなくなったと思うが、それでも70年代というようないまからそんなには遠くない昔にそんなことばかり考えていたことを知ると暗然とした気持ちになる。
受験に失敗したプライドが高い子供や、強姦の被害にあって「不注意であった」自分をせめつづける女子高校生や大学生は、こんな馬鹿げた(すまん)社会で、どこへ行くのだろう。
具体的な方法はさっぱりわからんが、わっしは日本の夜空に向かって叫びたくなることがあるのです。
「日本のすべてのバカガキども、聞け。悪いのはきみではない。きみがそう考えるに至ったのは無思慮で軽はずみで世の中を甘く見すぎたきみよりも、何倍もたちが悪い、きみの国の社会である」と。
ほんとーに、そう思うだよ。
日本のひと、染みのないシーツにくるまって寝るのは楽しいが、それは孤独な楽しみである、とわっしは思うぞ。
きみのふたつのいかにもアジア人らしいやさしい感じのする手は、さしのべるためにあるのを、きみは知っていましたか?

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