桐生悠々

戦前の日本の議会には傍聴席に双眼鏡を手に携えた軍服を着た将校の一団がいました。
軍部の利益に相反する発言をする議員があると、その名前を記録し、軍が組織を挙げて
妾の有無、収賄の有無、家族のなかにたとえば非行に走った息子や娘がいないかどうか、
特に世の中の人間に知られると本人の「恥」になるようなことがないか、徹底的に調べ上げた。日本陸軍という組織は、軍事上の作戦立案においては「兵力の逐次投入」の専門家であった上に空想的としかいいようがないバカバカな作戦しか考えられなかった癖に、こういう身内相手の姑息な陰謀となると妙に頭のよかった組織で自分たちの反対者を黙らせるためにはどうすればよいか、というようなことに関しては素晴らしい才能をもっていたのです。
日本の言論弾圧の特徴は西洋のように「すでに公表された意見」を弾圧する、という形をとらず、「空気を読め」という、その「空気」を濃厚に自分たちの思想で染め上げることによって「ものを言えなくする」ことにあります。
それは、いまでも変わらない。
たとえば天皇家についての言論上の禁忌を考えれば納得がゆくと思います。
多分、日本のひとたちは自分たちに言論の自由がない、ということにすら気が付いていないだろうとわっしは観察しています。
こういう江戸時代の農村的な「息苦しさ」は日本の近代史の特徴ですが、なかには変わった人がいる。

8月のあいだじゅう、わっしは「日本はなぜ戦争を始めたか」ということに説明を与えてくれそうな本ばかり読んでいました。近衛公の本や天皇の独白録、以前やはり英語側の本で系統立てて読んだこととあわせると何かわかりそうな気がしたからです。
「日本がなぜ戦争にはしったか」というようなことは英語人にはぜーんぜん興味がないことなので、きっとそのうちにこのブログの記事になると思います。
桐生悠々、という名前は、そういう読書のなかで出会った名前でした。
わっしが知らなかっただけで日本では有名なひとだそうである。
信濃毎日の主筆として五・一五、二・二六と続く軍人の圧倒的な暴力の嵐のなかで、その暴力をまったく恐れないひとであるかのように、桐生悠々は軍部こそが日本を破滅に導くものだと論難し、軍部の欺瞞、「誠心」や「大義」というような口当たりの良い言葉に隠れた薄汚い野心を弾劾します。
おそるべき勇気であって、「豪勇」というような言葉は、この眼鏡をかけて冴えないちょびひげを生やしたおっちゃんのためにあるのではないでしょうか。
主筆をやめざるをえなくなり、名古屋にひきこもったあとも今度は「他山の石」という個人誌(!)を出して軍部を糾弾します。
日本人にも、こんなひとがいたのだなあ、と思うと、なんだか胸が熱くなるようだ、と考えました。
「昭和よ、御前は今日から、その名を「暗闘」と改めよ」と書いた
桐生悠々は1941年、日本が太平洋戦争を始める3ヶ月前に死にます。
死んだあとには伏せ字だらけで、なにがなんだか全然わからない記事ばかりの「他山の石」とたいへんな数の「洋書」が残されていたそうです。
わっしは、その「洋書」のなかにポール・ヴァレリーがあるのを見て、へえ、と思いました。
桐生悠々がほんとうに生きたかった世の中がどういうものであったか、ちょっと判ったような気がしたからです。
そこには文明化した日本人というものの原像があるように思える。
日本が日本人が生来もっている文明的知性に見合った社会をどうしても実現できなかったくやしさが覗いているように思えます。しかも彼はそうした最大の秘密をひとことも言わないまま死んでしまった。
その沈黙の大きさが後世彼を有名にした政治的勇気となり剛勇となったのでしょう。

すごい。

30/August/2009

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