最終列車が出る頃

「学会の帰りにベルリンの町をタクシーで通っていたら」と、そのひとは話し始めた。
70代の、ドイツで生まれて育った女のひとです。
「なんだか急に息が苦しくなってきて、自分でも顔色が青ざめてゆくのがわかるし、
耳の奥でなんだか嫌な音がするの」
運転手が、異常に気が付いて、クルマを止めてくれた。
少し、外に出て、冷たい空気にあたってみたらどうでしょう、というところがドイツ人らしい親切さであると思う。

その人がクルマのドアを開けて、通りに一歩ふみだしてみると、辺りの光景が一瞬変わったように見えた。
ビルの崩れ落ちた壁の二階にはバスタブが見えていたのをはっきり思い出した。
周囲は、一面の瓦礫で、そのビルは2ブロック向こうなのに、わたしの家と、そのビルのあいだには、なにもなくなっていて、空にはいろいろな紙が散乱して、風に舞っていて、トイレットペーパーが、なんだか自分の意志で泳いででもいるように、低い空を流れていった。

その人は自分もクルマの外に出て心配げに見ていた運転手に通りの名前を訊いて、子供のときに住んでいた通りに自分が立っているのを初めて悟ったそうです。
この人の顕在の意識は気が付かなかったが潜在意識は窓の外を流れる景色を息を詰めて見つめていたことになる。
抑圧された記憶の彼方から、通りの向こうがわに迫るT34と、それを取り巻くように歩いてくるロシア兵たちの姿まで、いま目の前にある光景であるかのように思い出していた。

その人の母親は、幼かったその人をひったくるように小脇に抱えると、階上の自分たちのアパートに戻ることなく、なにも持たないで走り出した。
西へ西へと移動して、やっとアメリカ人たちの姿がみえたときには母親は、精も根も尽き果てて、へたりこんでしまったようでした。

あるいはビリー・ワイルダーは、すぐれた表現に満ちた英語の脚本で有名な人なので、生まれついてのアメリカ人だと誤解する人がいるが、この語学の才能に恵まれていた人にとっては、英語は20代になってから使い始めた言語で、母語はドイツ語です。
ユダヤ系オーストリア人だった。

1933年、ドイツ国会議事堂放火事件を知ったワイルダーは、ニューズを知ったその足でアパートに戻り、スーツケースに必要なものを詰め込むと、生活のすべてを放擲してフランスへと脱出する。
フランスへ逃れてから母親にウイーンから脱出するように説得しようとするが、自分達にはドイツで積み上げた生活があるし、第一、おまえは考えることがおおげさすぎる、と言って取り合わなかった。
1935年、アメリカに定住したワイルダーは、再度、母親をアメリカに逃亡させようと、決死の思いで、ウイーンへ説得に行くが、母親は自分は再婚もして、ここに新しい生活があるから、と言って断ります。
戦後、ビリー・ワイルダーがオーストリアに母親を探しにもどってみると、母親も再婚相手の義理の父親も、どうやらナチのユダヤ人収容所で殺されてしまったようでした。

バルセロナで、ぼくのために働いてくれているMは、チェルノブルの事故があったときには、まだ小さな就学前の子供で、キエフの郊外に住んでいた。
ある日、まだ午後の早い時間だというのに血相を変えて家に帰ってきた物理学者の父親が、母親と慌ただしく荷造りをして、クルマに乗って西へ西へと走り出したのをおぼえている。結局、まる二日クルマに揺られて、親戚が住む他国の小さな町にしばらく滞在した。
思いがけなく、いつもは忙しい父親と母親と一緒に過ごしてくれる休暇ができて嬉しかったそうだが、「逃げられなかった人たちは、どうなったか?」という質問には、いちども答えたことがない。
ディアグノルのカフェでみなで昼ご飯を食べているときに、誰かがほとんど何の気なしに質問したときに「どんな人が想像するより、ずっと酷かったけど、…何もいいたくない」ときっぱりした言い方で述べたので、それからあとは、チェルノブルについて訊ねてみる人はいなくなった。

アメリカのABCが1983年につくった「The Winds of War」と続編の「War and Remembrance」は、いまだに人気があるミニシリーズだが、Ali MacGrawが扮するユダヤ系アメリカ人Natalie JastrowとJohn Housemanが演じる、その叔父Aaron Jastrowの歴史研究者の運命は、切迫した危機が迫ってきたときに、ひとびとが自分達の生活を捨てて危険を避けるために移住することがいかに難しいか、うまく描かれている。

劇中、アメリカに移住したユダヤ系ポーランド人のAaron Jastrowはイエール大学の歴史学教授で高名な作家でもある設定だが、シエナに滞在して研究ちゅうにドイツ軍のポーランド侵攻に遭遇する。Natalieは外交官である婚約者の警告をふりきって、クラカウ郊外の叔父の結婚式に出席する。

何度も脱出の機会があるが、そのたびに一瞬のためらいや、この場所を離れてしまえば自分は何者でもなくなってしまうという気持ちが、脱出をはばんでしまう。
見ていると、子供のときからいままでに出会ったユダヤ人の友達たちが、折に触れては語り聞かせてくれる「ファミリーストーリー」を思い出させる場面が、たくさん出て来ます。

もうこれ以上くだくだしく書く気はしないが、危機のなかにとどまるということは生活を破壊に任せることとほぼ同義であると感じられて、たとえばメルボルンにもオークランドにも、逃げ遅れて日本軍に家族が惨殺された中国人たちが、たくさん住んでいて、そういう中国人の友達の家に夕食に招かれてでかけると、食後のポートワインをなめながら、
奥さんが書斎から持ち出してきたアルバムや私家版の家族の歴史の本を広げて、写真を指さしながら、この人は日本軍に校庭で跪かされて銃で撃たれて死んだの、こっちの人は日本軍に連れ去られたまま生きてもどってこなかった、と述べているのを聴いていると、だいたいどこの家でも、占領地域に取り残された中国の人は、一家のうち何人かが日本人に殺されているようでした。
オークランドには、オランダ人の移民も多いが、この人達も、ナチの隠れた支持者が多かった国情を反映して、地下抵抗運動でナチと戦った側の人たちは、立派な装幀の自費出版の家族の歴史の本を広げて、占領後のナチとの「見えない」戦いがいかに凄惨なものだったかを教えてくれる。

このブログを過去の記事にだんだんさかのぼってゆくと、福島第一事故のあとでも、自分は日本はもう怖いから行かないが、どこの場所が危ないとかどんな食べ物が危ないとか、知識がある日本の人にとっては、当然、「日本に残る」という選択肢もあるはずだ、となんべんも述べている。
自分の住み慣れた町を出て、いままでの職場も去って、知らない町へ行って住む、というのは同じ国のなかであっても大変なことだからです。
実際、とにかくすぐに、いまは何も考えずに出来るだけ遠くまで逃げた方がよい、危ないか危なくないかは逃げてから考えればよい、という忠告に従って、事故後はすぐに関西や九州に東北・関東から脱出した人も、しばらく様子を見て、これなら大丈夫かも知れないという観察をして、二、三ヶ月で東京に戻った友達やあるいは郡山からいったんもともと住んでいたバンコクに戻って北海道に住むことに決めた友達、いろいろな判断で、暮らしている。

ぼく自身は、ニセガイジンということになっていて、日本語が巧みだということだろうから、ほんとうは光栄なことだと思っているが、日本にいたときは、やはりなんだかほんとうの自分でないような感じがした。
楽しくない、ということではなくて、現実世界の日本の人はインターネット上のサディズムむきだしの日本人とは異なって、ちょうど正反対というか、びっくりするほど親切で、家に招かれれば鮨職人を半日雇って歓待してくれる上に、ぼくが何の気なしに聞かれてこたえた日本酒の好きな銘柄までおぼえていて樽菊正宗や立山が周到に用意してある。
若い世代の日本人の友達たちと、たいてい青山のブルーノートのコンサートに始まる週末の夜の楽しみも、気持がいい人達である上に、礼儀正しくて、嫌な思いや、奇異な態度にあったことはいちどもなかった。

それでも、ぜんぜんうまく説明できないが、「なにかが、ほんとうでない」という考えが頭から離れなかった。
日本に滞在していたあいだは、それが日本の文明に西洋のコピーがたくさん混ざっているからではないか、と言うようなチョー失礼なことをいろいろ考えたが、英語社会にもどってみると、どうやら周りが皆英語で話していて、スーパーマーケットやベーカリーに行けば、どこにでもCream Bun
http://insideireland.ie/?attachment_id=55786
があって、リクリッシュ

Red Licorice


がある、というようなことがおおきいようでした。

そんなあああー、東京になんて、世界中のもの、なんでもありますよ、というきみの声が聞こえそうだが、そーゆーものでもなくて、ラム(仔羊肉)にしてもラックばかりで、背肉になると、もうどこにもなくて、仕方がないのでレストランのシェフの人に聞いて、一頭の半分買わなければいけなかったりして、面倒で、イライラしたりした。

ずっと昔には、かーちゃんシスターが義理叔父と結婚して、いちどだけ日本で過ごしたクリスマスに、東京中のどこにも「クリスマスケーキ」
http://www.annabel-langbein.com/annabel/blog/christmas-cake-2012/
がなくて、半ベソになって、それ以来二度と日本でクリスマスを過ごさないと決めた、という話を思い出す。

つまりは、そういうことの積み重ねで、クルマに乗って聞こえてくるFMから聞こえてくる曲が妙に古い曲とMyley Cylusみたいな「ベスト10ソング」の入り交じった、「日本テイスト」な曲ばかりだったり、言わば「目抜き通りの西洋文化」で出来ていて、裏通りも、袋小路も全部省かれているので、そういうことが「なにかがウソっぽい」と思わせる原因になるようでした。

だから移住は大賛成だが、ほんとうにダイジョブかね?というようなことばかり述べていた。
福島事故と関係がある移住というようなことではなくて、josico(@josico)はんという日本語インターネットをのぞき見しだした2005年くらいからの長い友達の人がいて、いまでもこうやってだらだら日本語を書いているのはjosicoはんがあるとき送ってくれた長いemailのせいだが、このひとはゲームデザイナーなので、つくりたいゲームをつくらせてくれるところならどこにでも住むと述べて、いまはカリフォルニアのオレンジカウンティに住んでいる。
なにしろぼくがチョー放射脳なので、病んだひとを労る憐憫の気持をもって言わないでいるのだと思うが、本人は日本食スーパーでみかけておいしそうなものならバリバリ食べて、「放射性物質」なんちゅうものは、あんまり気にしてないようだ。

josicoはんのツイートや他の書いたものを読んでいると、どうやら(当然予測できることだが)ロサンジェルスやアーバインのあたりでは、なにしろむかしぼくが子供の頃でも「アーバインは日本語で生活できる」と家に来たアメリカ人たちが述べていたくらいで、いまなどは、読んでいると、ひょっとして東京よりも日本のものの選択が多いのでは、と思うくらいです。

でも欧州などは、いくら日本のものが増えたと言っても、もともとアジアにはまるごと興味がない地域なので、日本の人は、「ほんとうでない生活」な感じがするのではなかろうか、オーストラリアやニュージーランドでも同じなんじゃないかなあー、と思うことがある。
そうして、そう思う度に自分が日本にいたあいだじゅう感じた「なにかがほんとうでない感じ」を日本の人は移住した先で感じるのではないだろうか、と考える。

だから「日本から海外に移住するだけが選択肢ではない」と、ずっとのべつづけてきたが、今度は安倍政権が「憲法は変えないけど無視する」という奇想天外な手に出て、相も変わらず日本の「賢い人達」は「法がそれを許しているんだから、いいんじゃないの?」とばかり述べていて、もうすぐどこかから「だって調べてみたら欧州のドイツとかも似たようなことやってんじゃん」と「鬼のクビを取った」ように欣喜雀躍して言い出すのは時間の問題なのも判りきっていて、これはひとりひとりの(特に若い)日本人にとって、チョーまずいことになった、と考える。
gear upが終わって、日本が国家として戦争のなかにとびこむ準備を終えてしまった以上、国家の問題はここで終わりで、いまさらくだらない「言論」など述べてもたいした意味はなくなったので、今度はもっと個人の「自分自身」に、日本の若い人は集中しなければならない事態になってしまった。

もともとは子供の時に住んでいたのと「ファミリー」のなかに日本人のおっさんと、父親が日本人のマブダチがいる、というだけであんまり関係のない国なのだから、言わないですまして、あとで、たいへんだったねー、で誤魔化すことも出来るが、やはりそれでは目覚めが悪いので、意見を修正しておこうと思って、この記事を書いているのだと思います。

はっきり言ってしまえば、もう、海外に逃れるくらいしか、手立てはないようだ。
日本にいると実感されないが、前にも述べたように、たとえばニュージーランドドルならば長いあいだ1ドル55-62円で最大幅をとっても40円-82円だったのが、どうやら1ドル90円前後で定着しそうで、日本から6000万円もちだせたとしても、もう実際には安倍政権以前の半分の価値の3000万円しか日本円の価値はない。
この状態が変わるとは思えなくて、理由は、自国の通貨建てで日本の企業の株価を換算している海外の投資家にとっては株価があんまり変わらなくても、日本人の目にはずいぶんあがったように見える株価のトリックも含めて、「アベノミクス」のおおきな部分は日本人を貧乏にしてゆくことによって成り立っている部分もおおきいからです。

その上、インフレを起こして悦にいりつつある日本銀行と異なって、英語世界の悩みの種はインフレを抑え込むことで、たとえばニュージーランドで言えば、88オクタンのガソリンが施設が更新されたせいで91オクタンに精製度があがると、「別製品」ということにして3割の値上がりをなかったことにする、というような統計上の離れ業(←インチキ、とも言う)を連続で駆使しても、インフレは常に4%に迫っていて、なかでも不動産というようなものに至っては15年すれば価格は倍になる。
主な理由は現代では「英語を話す、近代的インフラがある国」には世界中の富裕層が流れ込んできて、地元の人間には高過ぎるようにしか思えない不動産でも、更にその上を行く値段でオークション会場で手を挙げて買ってゆく。

「倍」なのは住んでも生命を心配しないで良い地区の平均で、つまりはあんまりニュージーランド人が住みたがらない「ビンボ名前」の地区が含まれていて、「高級住宅地」というようなことになると英語圏共通の傾向に従って3倍4倍、というような価格になってしまっている。
だから日本で家屋を売り払ってニュージーランドに越そうと考える人にとっては、昔の何倍もの「円」を用意しなければならなくなってしまった。

若い世代はニュージーランドで職を得て仕事をすれば良い理屈だが、こんどは連合王国でもオーストラリアでもニュージーランドでも優秀な移民の影響だと思うが、全体に競争のレベルがあがりすぎて、生半可な技量や知識では収入がある仕事として成り立っていかない。
また一方ではjosicoはんのように生活を楽しみながら、せいぜい不満は「カリフォルニア人は愚かにもサッカーの熱狂を理解しない」というくらいのことで、すいすいと暮らしているのは、要するに「よりよい仕事」を求めて、たまたまカリフォルニアという土地に来たからで、要は仕事というスコープで生活を眺めているから楽しんで暮らせているので、自国に住めない絶望から、他の国に「逃れて」来たのではないからに見える。

仮に日本がもともと1945年以前はずっとそうだった「戦争大好き国家」に先祖返りして、その上、福島事故処理の人員確保のためにシンガポール式の「兵役か公共事業か」を選ばせるナショナルサービスを導入したりして、ナチの時代のドイツ人たちの科白と同じ「普通の国家」めざして死の道をどんどん歩き出したとすると、その意図が明瞭になってからでは、出国は出来るわけがない。
クレジットカードの海外使用制限から始まって、「渡航日本人の安全を守るため」にさまざまな締め付けが行われるでしょう。

法律さえ存在すれば、なんでも唯々諾々としたがって律儀に破滅へ向かう日本の人の国民性を考えれば、政府の手には、「旅券返納命令」という、簡便な、あらゆる日本人を海外から呼び返す方法も握られている。
特に、事を荒立てて江戸時代の「鎖国令」のようなものを出す必要はなくて、ちょっとでも「気に入らない日本人」は日本列島の格好をした牢獄に閉じ込めておける。
「気に触るやつだから」下地真樹を逮捕して、勾留という日本に特徴的な制度を利用して檻のなかに閉じ込めた大阪府警の情緒がすべての遵法感覚を見れば、特に旅券返納命令をださなくても、
たとえば海外日本人の「居住証明」を法的に拡大して「日本人会」を再組織しなおして、在外日本人を管理下において締め上げるなど「朝飯前」であると予測がつく。
海外に住んでいるひとりひとりの日本のひとのために細かいことを述べると、日本政府が(恐らくはテロリスト対策を口実に)「十年旅券」の発行をやめて年限を短くしたら、それは危険が迫った合図だと考えてよいと思う。
シドニーに永住ビザで20年住んでいても日本のパスポートの所持者なら日本人で、日本人に対しては容赦しないのが日本政府の歴史なのです。

よく知られているようにヨーロッパの駅では、ベルもなにもなしに列車がプラットホームを出て行ってしまう。
いま、もじん(@mojin)どんが大学に勤めているチューリヒで、子供のとき、駅のスタンドで、のんびりチョーまずいハンバーガーをかじっていたら、危うくミラノへ向かう列車に乗った家族とはぐれて、かつては傭兵の輸出で知られた国に置いていかれるところだったが、あのときの最終列車のように、日本からも個人が何も考えないで個人として暮らせる一生を送る列車は、音もなく出て行こうとしているのかも知れない。

前にも述べたように弟としか思えないMは、日本に残ると頑張っていたのに、意見が変わって、Mにはきっと向いている面倒見の良い人がたくさんいる国の研究所に転職することにした。もうひとり、やはりぼくより年少で、自分には日本を出て行く勇気がないと、必要も無いのに自分を責める手紙を寄越すSは、いまだに諦めがつかないまま関西の町で唇をかみしめている。

憲法のバイパスが決まった夜、もうここまで来てしまったらボチボチ時間を掛けて自由を取り戻すしかない、と述べにきてくれた人がいたが、いかにも生まれてからずっと平和だった世界に親しんだ人の、現実離れした感覚で、それはそれで日本人らしくて(皮肉ではなく)愉快で面白いが、この段階に至った国家が民主的な手続きを見せかけ以上に遵守した例は歴史上に存在しない。
ずっとむかしに述べたように国家の本質は「絶対暴力」で、国民に自由を与える必然性がないのに、それまで国家の眼には怠惰な自由を貪っていただけの国民ひとりひとりの権利をマジメに心配してやる国家が世界のどこかにあると思うほうが頭がどうかしている。
ゲームはすでに終わって、ほとんどあっというまに敗北した、(意識する意識しないは別にして)憲法9条を中核とした「戦後民主主義」に寄りかかって限定された自由を楽しんできた個人は、いつでも国家の要請に従って「国の部分」として自分の人生の何分の一か、あるいは全部を供出することを求められることになった。

最終列車がいつ出るのかは判らないが、そろそろ、日本という社会全体よりも、偶然めぐりあって、お互いにうんざりしたり口論したり、そんなのおかしいよ、とそっぽを向いたりしあっていたひとりひとりの日本人の友達たちに焦点を移すときが来たと感じる。
最後の列車が出た途端に恐ろしい音を立てて駅の伽藍が崩れ落ちてきそうだと思う。

遠くには、軍靴の音が響いている。
そうして歴史は、軍靴の音は、どんなに遠くから聞こえるように思われても、いったん聞こえはじめてしまえば、あっというまに自分の家の玄関の前に来て立ち止まるものだと教えている。

いつか地獄を通行した若者の言葉で「なぜこんな国にした」と父親たちが面罵される日が来るだろうか。

02/July/2014

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