モニと一緒にいるということ

リミュエラの坂をのぼりながら、わしはモニのことを考えました。
そんなに深刻なことを考えたのではない。
モニは、どーして、あんなにかっちょいいのだろう、とか、モニはふたりだけでいるときに笑うと5歳くらいの子供みたいだのい、とか、そーゆー他愛のないことです。
なんという美しいひとだろう。

わしは、結婚するまで、ずうっと長いあいだ、どれほど自分がモニを愛しているか知らなかった。
ひとりでいることを偏愛しすぎたわしは、自分のソウルメイトがこの世の中にいるだろう、という予想をすらもてなかった。
まして、それが自分と違う言語を母国語とするひとであるはずはなかった。
いま考えてみると、ただひとりで考えている人間がもつ思考の、なんという軽薄さでしょう。

人間の一生は怖い。
やりなおせない、からです。
いや、わしの社会では社会的な意味ではいくらでもやりなおすことは出来る。
でも、人間の意識をつくっている時間というものは不可逆的なものであって、一方向にしか流れない。
起きたことはすべて死ぬときまで自分で抱えてゆくしかない。
人間の一生はそう云う始原的な残酷さに満ちている。

こーゆーことを他人にいうのは適当ではないのかもしれないが、わしはモニと会えてよかった。
わしはモニの良い匂いがするベッドで背中の後ろから巻き付くモニの腕のなかで眠る。
起きると、モニの朝にはいつも暖かい身体が隣で行儀良く横になっています。
わしはつけっぱなしだった冷房を止めて、コーヒーをつくりに起き上がるであろう。
ソーセージをゆでたりベーコンを焼いたり、ポーチドエッグをつくったりして、モニと一緒にテラスで食べる。
モニとわしは、ありとあらゆることについて話すであろう。
モニの母国語であるいはわしの母国語で、エマ・トンプソンのドレスの話から土星の誰も知らなかった新しい環、R・ドーキンスの新しい本。
わしの投資の決断の仕方は性急すぎるのではないか。
あのLというひとは信用が出来ない。
あんなひととガメがふつーに仕事の話をするのは感心しない。
ガメの人生のゴールはなんであるか。
どうすれば、もっと幸せになると思っているのか。

タカプナの遠くにたおやかな稜線の島が見える、どこまでもまっすぐな砂浜を散歩しながら、ラミュエラの木陰の多い道を歩きながら、パーネルの坂道を歩きながら、モニとわしは、話し続ける。
カフェで、レストランで、誰もいない海の見える丘の上の公園のベンチにふたりで並んで座って、話し続けるでしょう。

はた迷惑なことに、急に立ち止まってキスをすることもあります。
モニの輝く柔らかい唇は完全にわしのものである。
道行く男どもが、ただでさえ巨大な「うらやましい」を3乗にしてくやしそうに歩いておる。
(ぬはは)

結婚という旧弊な社会制度がこれほど人間を幸福しうるものだとは考えたことがなかったので驚きました。
この制度は魂を私有しあうことを公に宣言している点ですぐれて反社会的で同時に私的である。
人間と社会制度の複雑で玄妙な関係はわしのぶわっかな頭の能力を遙かに越えて不思議なやりかたで人間に幸福を運んでくるもののようです。

モニの国のひとは「結婚」というものを信じないが、モニは信じても良いと思ってくれているよーだ。
モニは、聡明なひとだからな。
きっと矛盾もおそれをなしてモニの知性と美しさの前にひれ伏してしまっているのでしょう。

モニ。
あなたはわしに「ガメの夢はなんだ?」と訊くが、退屈な英語人のわしは、夢なんかないのです。
そんなもの持つほど文明度が高くないのね。
英語人というのはどこまでも身も蓋もない現実的な世界に生きておる。
夢を見ない文化なんです。
ただ、あなたを幸せにしたいと思っている。
こんなことはあなたが読めない言語でしか書けないが、わしがあんまり酒を飲まなくなったのも、ほんとうはひとりでやってゆけるに違いないあなたが、もしかすると、他人というものを頭から信じてしまいやすいあなたの性格のせいで、わしなしでは欺されて生きていけなくなってしまうのでないかという考えのせいである。
あなたが聞いたら怒るに決まっているけどね。
ガメがいなくてもわたしはひとりでやってゆける、とあなたはゆーであろう。
そうして、それはほんとうに決まっているのです。
でも、少しでも長生きして、あなたが死ぬ日まであなたを守っていたいと思うのはわしのわがままである。
わしという旧弊なセクシストの秘かな愉しみであるのかもしれません。
わしは朝、目がさめると、まずどれほどあなたを愛しているかを考える。
(ははは)
キチガイみたいなもんだが、でも、ほんとうなんです。
どうすれば、あなたがもっと幸せになるだろうか、と考える。
ほんとうのことをゆえば、世界のことなど、どーでもよい。
仕事も正義も論理も自分も、どーでもよいのです。

人間の一生は怖い。
やりなおせないということが死ぬ間際まではほんとうには判らないからです。
やりなおせない、ということのほんとうの意味は、死者だけが知っている。
人間は仮に理性的に生きようと思えば無限の後悔のなかでいきてゆくしかない。
あるひとびとは、だから、そこに神を見るであろう。
わしのようなはぐれものは、そこに人間の「栄光」を見る。
人間の思想の尊厳は、まさにその「一回性」に依存している。
その取り返しの付かない時間の連続に自己を投企しつづける愚かさのなかにこそ人間の光輝はあるのだと思います。

モニ。
だから、わしらが眠るとき、わしらは確かに「ちいさな死」を死ぬのだ。
朝、またあなたに巡り会えることを期待しながら、途方もない無へのダイブのなかへ眠りこむ。
あの深淵に沈んでまた明日には水面にまで駆け上がる。
かたく手をつないで。

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