ふたりの車夫

Tank Manという。
天安門事件のときに素手で学生達の虐殺と鎮圧に狩り出された戦車の車列の前に立って、戦車が回避しようと右に操舵すれば右側に動いて立ちはだかり、左に回頭すれば左に歩いてまた立ちはだかる。
戦車が茫然とした様子で停止すると、今度は戦車に飛び乗って、中の戦車兵たちと口論する。飛び降りてきて、また戦車の前にたちはだかる。

この間、終始、ひとりで、手にはなんの武器ももっていずに、武器をもっていないどころか、なんだかぶらりとやってきて、自分の生命など何ともおもわない態度で戦車を止めてしまったような印象の人で、いまだにどこの誰であったかわからず、その後どうなったのか、行方も知れない人です。

一部始終が動画に撮られて、日本のマスメディアだけは、「戦車が広場を離れるときに起きた事で、阻止の意味はなく、あんまり意味がない行動だった」、たいしたことではない、とくさして、いま見たら日本語wikipediaにもそう書いてあって、さすがは日本人と感心してしまったが、英語国民などは単純なので、その「さりげない」と言いたくなるほどの、静かな、でも圧倒的勇気、ケーハクに述べて、桁違いの人間としてのカッコヨサに痺れて、中国人なるひとびとは自分たちが内心バカにしていた自由の価値が判らない野蛮で礼儀知らずな人間の集まりなのではなくて、自由を求め、自由のためなら生命を捨てることも厭わない文明人の集団なのだということを悟ったのでした。
圧政政府と戦う自由主義者としての個々の中国人という、いま西洋人に広く行われているイメージは、この若者の孤立無援の勇気が嚆矢だったのではなかろーか。

後年、いまに至るまでビデオを観ながら「自由が奪われそうになったとき自分にはこれが出来るだろうか」と自問した若い人間は世界中にたくさんいたはずで、ぼくももちろん、緊張した面持ちで、自分の勇気を自分に尋ねて試す息苦しい作業を何度か繰り返すことになった。
人間の勇気って、すごいものだな、と少し突き放して考えたりした。

あるいは、Tears of a Rickshaw Driver というNicholas Kristofが書いたチョー有名な天安門事件レポートがある。

「1989年6月3日、わたしは北京のthe Avenue of Eternal Peaceに立っていた」とクリストフは書きはじめる。
天安門広場のすぐ脇です。

学生達は、もちろん、まだまだ先行きは長いものの、大幅に軟化した政府の態度の変化に喜びを隠せず、警察に感謝の言葉を述べたりして、一緒にいた市民たちとも、やがてくるとおもわれた自由社会の跫音に一緒になって耳を傾けていた。

そこに人民解放軍が突撃してきて、まず一団の学生たちを撃ち殺す。
銃撃されて血まみれになった同級生を救うために、多くの学生が駆け寄ると、また一斉射撃で叫び声をあげながら瀕死の学友の救援に駆け寄る学生たちを容赦なく銃撃する。

呼ばれて駆け付けた救急車にも銃撃を浴びせて救急隊員が負傷する。

一瞬で、文字通り血の海と化した通りに茫然とたちつくすこの特派員は、そのとき、ひとりの、汚いTシャツを着た、がさつな「高校も出ていなさそうな風貌の」人力車夫に気が付きます。

まわりの見るからに教育程度が高く身なりもいい若者達とは対照的な外見のこの車夫は、ところが、人力車の方向をくるりと変えて、兵士たちが擬している銃口の列のすぐ前に出て、傷付いた学生達を自分の人力車に乗せ始めた。
おれを撃てるものなら撃ってみろ、といわんばかりの行動。
誰もが車夫が撃たれて死ぬ姿を思い描いて、目をつぶりかけたとき、
他の車夫たちが、いまだに銃口を向けている殺気だった兵士の群を遠巻きに後退して眺めていた学生たちをかきわけて、傷付き、あるいはすでに生命を失った学生たちの身体を、自転車で引く三輪の台車に次々に並べていった。
引き金を引けずに震えている兵士達の目の前で踵を返して次々に負傷した若者達を車夫たちは運び去っていった。

Nicholas Kristofたち外国人特派員たちは、この彼らが「無教育まるだしで、粗野な」と文中で表現した車夫たちの、桁外れの勇気とヒューマニティにぶったまげてしまう。
そうして、それが「善を信じる魂」だけが演じられる勇気であることに気が付く。

あとで聞くと、居合わせた特派員のおっちゃんのなかには、あまりのことに、いいとしこいて泣き出してしまった記者たちもいたそうで、人間の善意がこれほど強烈なものだと、それまで考えたことはなかった、という。

最近、日本は善意志の存在しない社会だ、とぼくは何度も書くことになった。
慰安婦をめぐる強い悪意に社会全体が支配されているのでなければ起こりえない議論ともいえなさそうな議論や、お家芸というか、強姦を握りつぶす警察に業をにやして、意を決して自分の実名と顔を公開する形で強姦被害者が会見を開いてみると、「けっこう美人じゃん」「どうせ売名でしょう」という声が当たり前のように返ってくる。

「で、それをやるとおれはいくら儲かるの?」というだけが行動原理の基礎をなしているのだとすると、社会のたいていのことに説明がついてしまいそうな日本の社会を眺めていて気が付いたのは、日本の社会には善なる意志が存在しないことで、
妊娠後期に新宿の駅で倒れて失神したまま、30分を放置されていたアメリカ人や、事故で、舗道に倒れていて意識はあるが身体は動かせない状態で「頼むから、誰か手を貸して、わたしを 助けて」と祈っていたら、何十人もの人が知らぬ顔で通り過ぎたあと、やっとひとりの若者が自分のほうに向かって歩いて来て、ああ、ありがたい、これでやっと助かる、と思った瞬間、自分の身体をまたいで歩いてしまった、と後で、この人が日本人の感想を聞かれるたびにひとつ話に話して大笑いしていたようなことは、考えてみて、どうも日本の社会には「善」自体が存在しないからではないかとおもうようになった。
善なる意志が存在すれば起こるはずがない人間性の卑しさを手のひらに載せて相手につきつけて嗤ってみせるようなことが、日本語世界では、毎日のように起きていることに気が付いた。

そのことを日本語で述べてみると、「西洋社会とは異なって日本人は宗教をもたないから、あたりまえなんですよ」という声が最も多くて、あたりまえだから仕方がないんじゃないの?がいかにも日本で困るが、それとは別に、「絶対神の欠落=善の不在」と自分でもむかしは考えた意見をきくたびに、考えたのが、この事件の車夫たちのことでした。

説明がつかないのではないか。
中国にはキリストもマホメットもおらんのやで。

車夫、で思い出した人もいるのではないだろうか。

「一件小事」という有名な魯迅の文章がある。
小説とは到底呼び得ないような短い文章です。
初めて「A Little Incident」という、この文章を英語で読んだときには、名前のさりげなさのせいもあって、意表を衝かれて、おおげさにいえば、なんだか心理的な恐慌状態に陥ってしまった。

短いせいで、視界の端でよく理解できないものを見たような感じで、えっ、いまのはなんだったんだろう、と思って、もう一回読む。
二回、三回と読んで、息が出来ないような気持ちになっていった。

日本語では竹内好の訳で「小さな出来事」として、至る所にテキストがあります。

小さな出来事
http://www.ribenyu.cn/space-68561-do-blog-id-12415.html

魯迅が乗っていた人力車の梶棒に衣服をひっかけて、ゆっくりと老婆が往来に倒れる。
足を止めた車夫を見て魯迅は

「私は、その老婆がけがをしたとは思えなかった。それに、他に見ている者は誰もいない。だから車夫のことを、よけいなことをする奴だと思った。わざわざ自分の方から事件をこしらえ、おまけに私の予定を狂わせてしまうとは。」

と舌打ちをするような気持ちで考える。
気遣う車夫に対して「ころんでけがをした」と述べる老婆に対しては
「私は心に思った。お前さんがゆっくり倒れるところを、この目で見たんだぞ。けがなんかするはずがあるものか。狂言に決まっている。実に憎むべき奴だ。車夫はまた車夫で、よけいなお節介ばかり焼きたがる。好き好んで苦しい目をみたいというなら、よし、どうとも勝手にするがいい」

と苦虫を噛みつぶす。
まるで日本の人を彷彿とさせる正義漢ぶりです。

そのあとに続く文章は有名なものなので、少し長いが纏めて引用します。

「 車夫は、老婆の言うのを聞くと、少しもためらわずに、その腕を支えたままで、一足一足、向こうへ歩き出した。私が怪訝に思って、向こうを見ると、そこには巡査派出所があった。大風の後で、表には誰も立っていない。車夫は老婆を助けながら、その派出所の正面へ向かって歩いていくのであった。 私はこの時突然、一種異様な感じに襲われた。ほこりにまみれた彼の後ろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかも彼は私にとって、次第に一種の威圧めいたものに変わっていった。そしてついに、毛皮裏の私の上衣の下に隠されている「卑小」を搾り出さんばかりになった。 」

ここで魯迅が見たものは、誰もみていなくて黙っていればわからず、老婆のいうことが客観的には信用できるともいいかねる状況のなかで、「内なる善」と自分の行動を照らし合わせて、魯迅を恐懼させたことには、老婆とともに警察に自首するという破天荒な行動に出た「善なる魂」で、よく知られているとおり、この車夫が行ったことは、この後長く魯迅の心の支えになり、ひいては日本との苦しい壮絶な戦いを経て、自分たちの社会をつくっていった中国人たちの心の支えになってゆく。

そんなマヌケな、と呆れてしまう人も多いとおもうが、神が存在しなければ善も存在しえないという若い大庭亀夫先生の仮説には、真っ向から反証するふたつの人力車夫の例があったわけで、大庭先生は、ときどきワインで酔っ払うと、じゃあ、これ、どうするんだよ、どう考えれば説明がつくとあんたは思っているのかね、と自分に向かって悪態をついている。

取調室の机を調書の束でバンっと叩いて、「証拠はあがってんだよ!」と叫びたくなる。

考えるヒントはあって、神をもたない中国人は、しかし、間柄によって何が真実かが決まるような相対価値で出来た社会を持っていない。
そこには、彼らの先祖が言語を形成するにあたって仮構した「天」があって、「理」が存在する。
西洋社会に較べれば遙かに小さく狭小な「公」を利して、自分と自分の家族の幸福を願う
、自分を幸せにしようとする強烈な欲望がある。
世界は演繹的に説明されうるものだという硬い信念をもっていて、とにかく他人の頭を借りずに自分の頭で考えて観るので無ければダメだ、という中国人は、びっくりするような数で存在する。

いちどは日本語世界に求めた「神が不要な文明」は、実は求め先が間違っていて、中国語世界に求めなければならないものなのかも知れません。

もちっとマジメに中国語をベンキョーしなければ。

日本の社会に悪意ばかりが猖獗して善意が極端に少ないのは、なにかほかのことに理由を求めたほうが思考の筋道がいいのだろう、と考え始めています。

15/June/2017

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One Response to ふたりの車夫

  1. 静電気 says:

    やっぱり何度読んでも、かっこいいですね。
    一番好きな記事です。
    天安門の写真を撮った小原玲さんのブログがあります。
    http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/217122/147491/58354569
    文明ってこういうことなんですね。
    中国の人たちの、自由を希求するすさまじい強さと勇気。
    自分の良心を社会的役割や責任感に埋没させないで生きるのは、日本では難しいけど。
    この記事のおかげで勇気は善意の総量から成ると知ることができました。
    私が衝動的に、入管前デモに参加した原動力でもあるかも知れない。
    自分自身の境遇への欺瞞、焦燥感にソワソワしてしまう記事でもあります。

    どこかでもしかして、「James.fの中国語練習帳」がすでにどこかで始まっているのでわ?
    もしあったらテキストに買いましょう😃

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