葉巻と白足袋

吉田茂は「日本は戦争で負けて講和で勝った」と述べた。
日本という国の運の良さは日本では珍しいほどの外交感覚をもった政治家がまったくの偶然から日本に「外交手腕」が最も必要なときに首相になったことで、吉田首相は鳩山一郎が公職追放にあわなければ、しかもその上に三木武吉という戦前策士型の政治家が生き残っていなければ生まれなかった。

たとえば吉田茂は佐藤栄作や池田勇人たちに「外交は見えない所ですすんで、見えないところで決まる。見えているものは、すでに外交ではない」と繰り返し述べているが、言葉にすれば外交官が若いときに叩き込まれる教科書的な常識に過ぎないが、吉田茂のチャイナスクールとしてのキャリアとその時期を考えると言葉に意外な重みがある。

吉田茂は講和を結びアメリカによる日本の占領を終わらせることをもって自分の政治目標とした。現実の政治人生においては講和のあとも長く首相をつとめたが、娘・和子が証言しているとおり、権力についた嫌人癖のあるひとの通例で「自分以外に首相の適任者はみあたらない」と思い込んで目的もなく権力にしがみついていたにすぎない。

アメリカの日本占領は当初「日本と日本文化の徹底的な破壊」を明瞭に目的にしていた。
史上、最も好戦的な民族として知られる日本民族の腕の腱を切って、弓をひけなくしたうえに、脳の前頭葉を切除して、ロボトミーを施すのがアメリカの占領目的だった。
具体的には「軽工業を限度とした産業をもつ中進国」にすることを目標とした。

合衆国大統領になるのが当然の宿命だと思い込んでいた一個の老将軍であるダグラス・マッカーサーが日本での「王」に任命されたことが日本のふたつめの幸運だった。
ダグラス・マッカーサーは自分が単なる「成功した解放自由軍の将軍」ではなく、有能な「統治者」であることを未来の投票者たるアメリカ国民に対してみせねばならなかった。
そして、当時の日本の狡知な政治家たちにとっては、それこそが付け目だった。

吉田茂個人の「軍人嫌い」には疑問の余地がない。
戦争中の軍人のバカさ加減への記憶もあるが、どちらかというと、もっと生理的なものであったようです。
日本占領軍GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビーが提案した警察予備隊幹部の名簿にノモンハンにおける対ロシア挑発戦争の企画者で、アジア各地での現地市民虐殺の立役者である辻政信の後援者でもあった服部卓四郎の名前を発見したときの激怒ぶりと強硬な反対は有名で、戦前戦中に日本を破滅に導き、戦後はアメリカ軍に取り入る人間が多かった旧日本陸海軍の将校に対する嫌悪はもちろんだが、注意すべきなのは、息子の健一以外には口吻ももらさなかったものの、アメリカ軍人たちも、(考えてみれば当たり前だが)心から軽蔑していた。

現実感覚にすぐれた外交官で、しかも観念や理想がつけいる余地のないチャイナ・スクールで鍛えた吉田茂が選択した日本の戦後の方途は、軍隊も交戦権も破棄して、日本国内の戦争讃美勢力の抑圧と共産主義の社会への浸透阻止を題目に、両者へのアメリカ人の恐怖心を煽り立てて、大軍のアメリカ軍を日本に駐留させ、この外国人たちの軍隊を利用して日本を防衛するという構想だった。
国務次官からあとでは国務長官にすすんだディーン・アチソンの日本占領プランと似ているが、決定的に異なるのはアチソンのプランは、そのまま日本に独立を許さないことを意味していた点で、アメリカからみれば、吉田茂の「独立は寄越せ、国防軍の軍隊はおまえがやれ」というプランは誰が考えても虫がよすぎるものだったが、吉田茂は、「日本はボロ負けに負けたので軍隊をもとうと思ってもカネがない。軍隊創設にどうしても必要な最低限という20億ドルというカネを出してくれるというなら考えてもいい」と、倒産した会社の社長が債権者の銀行に対して居直るのと寸分変わらない論法で、アメリカにとっては一方的な損にしかならない日本防衛プランを、当時のアメリカ国内の共産主義恐怖症につけこんでのませてしまった。

なぜアメリカが「日本を助ける義務はあるがアメリカの権益が危険にさらされているときでも日本にはアメリカを助ける義務はない」という、マヌケとしか言いようがないような片務軍事同盟を結ぶにいたったかをベンキョーしようと考えて、日本の戦後史を眺めていると、日本の政治家の狡知、縦横な知恵、相手の足ばかり狙って執拗に攻撃をかけるなぎなた武道家じみた徹底的な下品さに舌をまく。
狡いことや「下品」なことは外交においては、無論、ほめ言葉で、この狐のような賢さの政治家を大量に持った国が、ほんとうに、「連盟よ、さらば」「わが代表堂々と退場す」の、英雄美に満ちて、悲壮で、カッコイイ、言い換えれば筆舌につくしがたいほど無責任で愚かな外交を行って、石器時代の状態にまで自分達の国の都市をもどしてしまった同じ国の政治家だろうか、と頬をつねってみたい気に駆られる。

日本は戦争に負けて一文無しであることを切り札に厳しい国際政治の荒波を乗り切って、共産主義が国内に蔓延しそうだ、とことあるごとにアメリカを脅してはアメリカから巨額のカネを引きだして、公然と、あるいは内緒で、国家社会主義経済的な「傾斜生産方式」予算にまわして国を発展させていった。

アメリカが勝者の好い加減さで、日本を甘く見て、自分がただオカネをしぼりとられるだけのマヌケな「カネモチの叔母」の立場に立っていることに気づいたときには、もう遅かった。

吉田茂が述べたように外交は見えない所で歴史を決定するものであり、「外交努力」がおぼろげに各国の「識者」に見えてくる頃には、もうとっくのむかしに勝負はついているが、ヒラリー・クリントンの奇妙な提案のように、政治の中心から遠く離れたところでは、あれ?と思うような徴候を他人の目に垣間みせることがある。

あの奇妙な提案から始まって、いまでは次第に顕在化してきたことは「アメリカが太平洋の権益をかけらでも手放すことはない」という日本人の安心の種を裏切って、アメリカが、太平洋は、もうどうしようもないときには1941年の線にまで戻ってもいいや、と思っていることで、大西洋と太平洋とではどちらが大事か、というアメリカの外交の原本に書かれた事態に戻りつつある。
そういう言い方がアメリカ人にとって受けいれがたければ「固守防衛思想」から「機動防衛思想」に転換を決めたのだ、と言い直してもよいが、いずれ言葉の遊びで、実質は中国の成長の早さに、勢力圏を縮めて、その代わりお互いをよく知っていてわかりあえるもの同士だけで、たとえていえばペルシャに対する古代ギリシャ世界のように、テルモピレーやサラミスで一緒に戦ったことを思い出して、もういちど肩を並べて戦おうと考え出した、ということにすぎない。

まして中東がいまのようになると、小は実用性が危ぶまれたオスプレイを無理矢理採用し、大は共和党のなかですら日本との同盟見直しを討議することがタブーではなくなった「新しいアメリカ外交」の機運は正当化される。

吉田茂は、軍隊をもたないで独立を達成して、日本にばかり虫が良い状態で過ごせる期間を5、6年と踏んでいたが、朝鮮戦争にはじまるその後の展開は、日本に、あらゆる人の想像を越えた70年近くという長さにわたって平和と繁栄という恩恵をもたらした。

なんだか現実とは思われない不思議な歴史で、話として聞かされれば「そんなことが可能ならば、おれもその国の首相をやりたい」とどこかの国の首相に言われそうなほどの幸運だが、その「幸運」は棚からぼた餅として落ちてきたものではなくて、母親の顔を知らない孤児であって、皮肉なことに軍人がなによりも嫌いであったのに軍隊を名乗らない軍隊の創設者として歴史に名前を残した、一生になんども絶体絶命の場所から抜けだしては蘇った、ひとりの老人の、「見えない場所での努力」がもぎとったものであることを、ここに書いておくのも、歴史というものの上での人間の役回りの不思議さを考えるうえでは、まったくのムダではないと考えて書いておくことにします。

(画像はサンチャゴ・デ・コンポステーラの裏町。オトナたちはビールを飲んでタバコを喫い、子供はオトナにおかまいなく、きゃあきゃあ叫びながら犬と戯れるのがスペイン流であるw
これは昼食時の光景だが、夜中の12時でも同じことをやってるのね)

27/April/2014

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