貧しさの跫音

わしは人混みは大嫌いだが高速道路のサービスエリアの人混みだけは嫌いではない。
気持ちが少し華やいで浮き浮きしているひとが多いからでしょう。
サービスエリアの人混みには日本人には珍しい「表情」があると思う。
みながなんとなく楽しそうであって、まるで普通の国にいるようです。
鉄道の駅では無表情だがクルマで移動するときには表情が活き活きとしているのは、なにがなし、「集団」というものが個人に与える影響について考えさせる所がないとは言えないのかも知れぬ。

わしは殆どの場合長野と東京のあいだを高速道路で往復しているだけなので、サービスエリアもこの路線沿線くらいしか知らん。上りは横川が釜飯のおぎのやのおばちゃんが改装してかっちょよくなったのでときどき寄る。下りは高坂か上里が多いようだ。ときどき三芳の「まい泉」でカツサンドイッチを買っていくが、どうも本家よりもおいしくないような気がする。

こうやって書くと高速道路に乗ればサービスエリアに寄るようなふうだが、ほんとうは、そうでもないす。広尾と軽井沢のあいだは180キロくらいしかないので、ぶっ、と走るとすぐ着いてしまう。寄るのはモニが「喉が渇いた」とか「お腹がすいた」とむずかるときだけであって、それもだいたいわしがクルマを降りて買い物に行く。で車内で食べます。モニはどーゆーわけかサービスエリアは衛生的でないと決めておるよーだ。

わしはクルマのなかで食べるより他人にまぎれてひとの様子を観察しながら食べる方が好きなのでいやがるモニを横抱えにして、はまさかウソだが、巧言に令色を重ねてときどきレストランにひっぱってゆく。
そのときもそうであった。

軽食でいいや軽食でちゅうんで「わたし何も食べない」というモニを目の前において、わしはカツ丼だかなんだかロクでもないものを食べていたのだと思います。
ふとふたつ離れたテーブルを見ると、先刻バスで着いたとおもわれるガキ大集団のひとりがテーブルを占有しておる。
おまけに友達がもってくるとおぼしきおかずを待ちきれないのか、白いご飯だけをもう食べておる。 

最近の日本クソガキは躾が悪いのお、と思いながら、ちらちらとガキを眺めやるわし。
第一あのクソ勢いで白飯を食ってしまったら、友達がもってくるおかずが到着する頃にはもうご飯ないやん。
それでは日本人のご飯と「おかず」を交互に食べる、という偉大にして珍妙な習慣に反してしまうではないか。
そもそも主食とおかずは秋津島の固有な習慣にして行き交う人もまた食べる人なり、とかあんまり意味をなさない日本語を頭のなかでつぶやいていると、ガキがやおら白飯の丼を机の下に隠すようにしておる。
なにやっとんじゃ、あいつ、と思いながら、ガキの視線が漂う先を見ると、ひとりのおばちゃんがなにやら不審げにガキを見ておる。ガキはどうやらその視線をそらすべく丼を隠したもののようである。
「あの子は、白いご飯を買うだけのお金しかないようだ」とモニがいいます。
えっ?と思っていまやこそこそと机で隠し気味にした丼から遠距離を箸で米を口元に運んで途中で落っことしそうになったりしておるガキを注視するわし。

ガキは流石に白飯だけの丼を平らげるのは難儀らしくいまや情けなさそうな顔で丼に目を落としておる。
途中でふたり連れの友達がやってきて漬け物の小皿を置いていった。
ガキは「いらねえよお」というような事を言って笑いながら返してます。
しかしわしはふたり連れ漬け物ガキが去った後、ちょっとだけ涙ぐんで唇をひきしめたガキの横顔を見てしまった。

ガメ、泣いてるぞ、わかってるか、というモニのからかうような声。
うるせー、と思いながらモニを見ると、モニさんの目も潤んでおる。

わしは涙ぐんでいるガキンチョに寄っていて、こら、そこなガキ、あのおばちゃんがいるところまでいけば福神漬けがタダであるから、せめてそれをもらうくらいの知恵を使わんかいボケ、と言おうかと何回も逡巡したが、結局やめました。

クルマに戻って、モニとわしはずっとこのガキの話をしてました。
あれは学校の旅行のようだったが、ニュージーランドでは貧乏親と学校がこっそり話し合って親に十分な金が無ければ学校がすべて負担する。
ガキどもが間違いなく同程度の現金をポケットのなかで握りしめられるようにします。

わしは人間の富が平等に近くなるべきだ、というような寝言は嫌いだが、ガキは別である。ガキの時代にビンボーであった記憶は、そのガキ肩に一生のっかって、ガキの人生を苦しめるからでガキはすなわちカネのことなんかちょっとも考えないで暮らすからガキなのです。

おもえば、あの子供は身なりがビンボ臭くなかったので、わしはすっかり欺されてしまった。

白飯ガキは結局白飯を一粒残らず食べる周到さで丼を平らげると達者な演技力で陽気な顔をつくると、十何人かで、あるものはラーメンをあるものはカツ定食を食べていた友達の集団めがけて駈けていって、何事か叫んでふざけあっていたが、きみは、なにをおおげさな、というだろうか、わしは日本の社会に確実に迫っている何事かの幽かな音を聞いたかのように、この小さな出来事のことを考えました。

義理叔父が子供の頃、白いご飯に食パンのおかず、という弁当をもってくる同級生がいたという。普段は「給食」だが、弁当の日があると、そういう子供がまだクラスにひとりふたりはいたそうである。
それが、なくなっただけでも日本人はよしとせねばならんかしらん、とゆったので、わしに何をいいくさる、と怒られた事があります。
でももしかすると社会の幾分かはまた子供に弁当すらもたせられないほど困窮し始めているのかも知れません。

給食費を「払わない」親に憤激する社会の影で、もしかすると、給食費を「払えない」親たちがじっとしゃがみ込んで社会の怒号に震えていたのではなかろうか。
問題が「親のモラル」に収斂していく過程でほんとうのことを言えないまま、肩をいからせてみせていた親もいたのではないだろうか。

わしは雑誌や新聞を平気でゴミ箱から拾うひとびとの、その品性のまったくない功利主義が嫌いだが、あるとき、背広の男がゴミ箱から食べ物を拾ってもっていったのを見た事がある。食べかけの菓子パンだったが、そのときもわしは、あっ、と思ったものでした。
雑誌を拾うのと食べかけのパンを拾うのでは根本から意味が異なる。

収入から言えば日本人はまだまだだいぶん高いところにある。22位かどこかその辺で、シンガポールのちょっと下、とかそのくらいだと思います。
でも考えてみるとシンガポールでは300円も出せばものすごくおいしい食べ物が腹いっぱい食べられる。高速代はタダであるし、なにより、カネを使いたくない日は一円も使わないで暮らせる。
東京は不思議にもこの大長期デフレの後でもまだ生活費はいちばん高い国であって、ときどきロンドンが上に来たり、数え方でストックホルムが上に来てもベストテンの常連です。

前にも書いたが衣食住というその、生活にどうしても必要なみっつが必要な順に高いので、暮らしてゆくことそのものにたいへんなコストがかかる国である。
息をするのにもお金をとられそうな国、と思う。

あの白い飯だけの昼食を友達たちから離れて摂って、勢いよく友達のほうへ駈けだしていった子供は、これからの社会でどんなものを見ることになるだろう。
わしの目にはものの20年もすれば「国民に対していっさいの保障が出来ない」国家になりつつある日本で、彼がどれだけの事を出来うるかを考えると、気が遠くなってゆきそうな気がします。

22/August/2010

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