Concha Buika

Concha Buikaは今世紀最大の歌手である。
なんちて。
今世紀、まだいっぱい残ってるから、「こっそりいれれば番茶も玉露になる」といって売り出した「味の素」(ほんまでっせ。大正3年の味の素の広告である) みたいだが、でもBukaはやっぱりすごい歌手である。
男で言えばリチャード・ボナかの。
初めの歌い出しだけで涙が出てきてしまう。
シャチョーに、ボナの話をしたら「あっ、そーゆー歌手、いるよねえ。美空ひばり、とか」 と言っておった。
わっしは水原弘や西田佐知子は聴いたことがあって好きでもあるが美空ひばりは聴いたことがないので判らんが、そーなのか?

Buikaは、アフリカン・スパニッシュの代表的な歌手であって、フラメンコとJazzから出発してわしらの誰も知らないところへ辿り着きつつある。
発声法は、聴けば判る。

フラメンコのひとのものです。
すごい声である。

わっしはIvete Sangaloが大好き。
Quando a Chuva Passarの歌詞の意味が知りたくてポルトガル語のベンキョーをしてしまったではないか。
Nina Pastoriも好きである。
そうダサクでもいい。岡部駄作(「世界の駄っ作機」、というわしの座右の書を書いたひとです)でいいから、わしは「タマシイ」がない音楽は嫌いなのだ。
わしの尊敬するフランス人のワイン醸造家は「オーストラリアのワインは素晴らしい、ニュージーランドのワインに至っては、その上に繊細であって、非の打ちようがない。でもな、おれは、あんなものは絶対に認めない。ソウルがない、どこにソウルがあるのか。アメリカ人もオーストラリア人もニュージーランド人も「ワインの魂」というものを理解しておらぬ」とBBCで言っておったが、そう言われると悔しくても、ほんとうなのだから仕方がない。
フランスのワインやイタリア・スペインのワインには厳然としてある「理屈にあわない陰影」が、ニュージーランドのワインにはないのだす。
理詰めでワインをつくったので天罰がくだったのかもしれぬ。
ひとの声がメインの曲では、Ivete Sangaloの低音にはブラジルのひとの「声の魂」がこもっておる。 Nina Pastoriのシブイ声にも「フラメンコの魂」がこもっておる。

でもBuikaの声の魂は違うところから来るもののようです。
そんなこと、隠してもしようがない。
フラメンコには通常、黒人のダンサーは登場しません。
わしは特に人種差別だといって騒ごうとは思わん。
フラメンコというのは、日本で言えば「猿楽」のようなものであって、民族のいちばん狭くて肉薄した体感に根ざしているのす。
だからたとえば同じ白人でもアングロサクソンも、お断りなのである。
Buikaは本来あるべき空間よりも狭い部屋にうまれた。

Buikaは、その牢獄から声が聞こえてくる。
牢獄にいるのに、魂は空につながっているのす。

わしは思う。
BuikaのLa falsa monedaを聴いて泣かないひとなんて、この世界にいるのだろうか。
New Afro spanish generationを聴いて胸がいっぱいにならないひとがいるだろうか。
わっしはBuikaを聴くと、ただもう「すげー」と思います。
「すげー」と考えて暫くボーゼンとした後に、この文化的には絞りかすみたいに見えなくもない現代世界にも新しい耕地があるのを知って、すっかり嬉しくなるのであります。
このクワッチョイイ音楽を観よ。

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