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いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。
ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない?
ね?ね? いいでしょう?
疲れないようにしてあげるから。

そこじゃない。
へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう!

おもいっきり、お尻をつねられたこともある。

十代で身につけるべき、料理や掃除、洗濯の仕方、数学、スポーツ、外国語ちゅうような、「やらなくたって別にかまやしないが、身につけておくと残りの一生がぐっと楽になる」諸事一般教養のなかには厳として房中術、が入っている。

あ、きみ。
そこの漢字に弱い、きみ
房中術というのは「セックスのやりかた」のことです。

十代の半ばくらいから後半にかけて、男も女も、身体のなかに、なんだかむくむくと欲望がこみあげてきて、入道雲のように肉体のなかに垂直に伸びてくる。
どう考えても自分のために造形されて、魂までテーラーメイドでできたみたいにぴったりで、机に向かって数学の問題を考えているときも、ガッコの帰りに友達たちとチーズバーガーを食べているときも、あるいは両親の差し回したクルマの後席から通りを眺めているときであってさえ、たったひとりの人の面差しが眼の前をちらついて、そのひとのことしか考えられなくなって、甚だしきに及んでは、朝起きてから夜寝るまで、一瞬の間もなしに、そのひとのことばかり考えて、息をするのも苦しくなってくる。

初めは言葉で「あのひとは、こういうところが素晴らしい」と考えていたものが、言葉は高熱によって熔解して、なんだかドロドロになってしまい。
頭を抱えて、ベッドに横たわって、ぐわあああああああああ、になる。

ぐわああああ語で考えても、中庸をもたらす哲学的な解決に辿り着くわけはないので、混乱に混乱を重ねて、瞑も鯀も、乾坤の区別も、いっさい判らなくなって七転八倒するが、経験がないというのは、そういうもので、この後に及んでも、さりげなく「今週の金曜の夜、映画観に行かない?」も言えない。

バカまるだし。

どこまでが恋で、どこからが性欲で、どこからどこまでが好奇心で、どこからどうなるとマジメな恋愛に至るのかも、まだ、なんにも判らなくて、ただ性欲と性欲がぶつかりあう週末の夜を彷徨ったり、危険な目にあったり、vulnerableなティーンエイジャーだと見るや、アルコールを買うためのIDの提供やドラグや、もっとサイテーなことには札束で充満した財布をちらつかせて、巧言令色をもって襲いかかるプレデターおっさんたちもいて、いま振り返って考えてみると、あんな果てしなく広がる地雷原みたいな時期を、よくもまあ運良く生き延びられたものだと考える。

空中戦を戦うパイロットの死傷率は、初めの空中戦が最も高くて、バトル・オブ・ブリテンでも、まだ、どういうときにどうすればいいか判らないnoviceなパイロットほど、そこで一生が終わりになった。

最も危険な第一段階を、やっと生き延びて、大学生の頃になると、ようやっと「性」と向き合えるようになります。

いまのは、もうちょっと、いまいちだったなあー。
ガメ、コーヒー淹れてあげるから、もういっかいやらない?
ね?ね? いいでしょう?
疲れないようにしてあげるから。

そこじゃない。
へっただなあー。ちがうちがう! そんなに荒っぽくしたら痛いでしょう!

おとなの人間として、社会への進水式をあげたばかりの若い男と女は、知り合って、むやみやたらと森羅万象について話しあって、デイビッドボウイはいいよね、ジェスロタルも好きだな。
えー。そう?
わたしは、イアンアンダーソンは、もう古いとおもう。
なんだかイギリス臭すぎて好きになれない。
モンティパイソンも、おやじギャグが多すぎて、差別的で、ぜんぜん笑えない。
ガメは、なんでも古いものが好きなのね。

話して話して話して、話しまくって、田舎に行くと人工衛星が飛んで行くのが見えるけど、あのフラットで、つーとした飛び方は不思議な感じ、トーリーの時代はもう終わってしまったのに、経済だけを理由に、St James’s Streetのおっさんたちは、まだしがみついている。

そうやって無我夢中に話しているうちに、気が付いてみると、手がテーブルの上で相手の手と重なっていて、ふたりで同時に気が付いて、びっくりして、まるで自分たちとは独立した生き物が勝手なことをしているかのように、ふたりで、よっつの目で、自分たちの重なった手のひらを、じっと見つめている。

大好きな人ができて、言語のありとあらゆる伝達の仕組みやトリックやアクロバットまでを動員して、懸命に伝達の橋をかけようとすればするほど、もどかしくて、届かなくて、なにかが根源的に欠落しているような、核心にとどかないような気がしてくる。

おごそかに立ち上がって、述べてもよい。
諸君、われわれは言葉にうったえて出来ることは、すべて試みたと言わねばならない。
このままでは、なにも変わらない。
現状は膠着している。

この苦悩から、きみとぼくとが解放されるために、
いまこそ、われわれには革命が必要だ。

跳ぼう!
セックスへ!
(満場の拍手と喝采)

自分でやってみたときは、この辺をこう触って、それもうんとやさしく触って辛抱強くやっていると良い気持になってくるんだけど。

前、つきあってたボーイフレンドは、すぐ指をなめたがるんだけど、足の指をなめられたら気が遠くなりそうなくらい気持がよかった。

相手の言うことを聴いて、なんだか御用聞きみたいだなあーと思いながら、こうですか? こうすればいいの?
と教えてもらいながらお互いの肉体を使って遊んでいると、あっというまに朝になります。

身も蓋もないことをいうと、一般的に、男と女の組み合わせの場合は、男の側が考えるよりも、遙かに長い時間を女の側は必要として、男のがわでやさしくやっているつもりくらいでは、女のがわは、わたしはUPSの荷物じゃないんだから、と考えているもののようである。

ひとりひとりの考え方が違うように、ひとつひとつの肉体の感じ方もまた異なって、会話がうわべから深くもぐって、ほんとうにお互いの言葉が通じるようになるまでには、気が遠くなるほどのエネルギーと時間が必要なように、房中においても、また肉体が感応しあうようなるまでには、たいへんな労力の積み重ねがいる。

洋の東西を問わず、ポルノやAVのようなものは、単なるファンタジーで、世界平和の問題を考えるのにスーパーマンやバットマンを研究するくらい幼児的でバカバカしい絵空事にしかすぎない。

強姦という暴力がある。
暴力による性の否定であって、性が人間的であることへの軽蔑と否定の表明です。
男が女を自分の妄想のなかの「モノ」として完全支配するために行う強姦で明るみにでるのは全体の10%程度、男が男にくわえる強姦で露見するのは1〜2%だという。
ロンドンの警察医のおっちゃんは、「この頃はナマイキな男ガキをぶんなぐったあとに、オーラルセックスを強要して、相手の男の喉元までつっこんで苦しむ様子を写真に撮って喜ぶやつが多いんだよ」と述べてユーウツそうにしていたが、何を反映してか、性暴力、あるいは暴力の性化は実感として増えているそーでした。

日本の映画を観ていると、場面として通常の性場面の描写であるはずなのに、連合王国やニュージーランドの定義に照らすと強姦にしかなってない、ということは、よくある。
相手が「嫌だ」「やめてくれ」と述べているのに、身体の動きが止まらなければ、それは要するに強姦へずんずん向かっているわけで、女はそういうときは必ず「いや」というものだ、では、いままで文明という名前のもとで、いったい何をやっていたのか、と観ているほうは言いたくなる。

ノーマン・メイラーの時代には、盛んに議論されたように、性は個と結びついている。フランス哲学者たちは、相変わらずの観念オバケで、いろいろ異なる意見を書いたが、それはまた別のときに書くとして、
相手が自分と同じ人間であると理解する能力を欠いた人間が、たとえ行為ちゅうの一瞬であれ相手をモノとみなして興奮する、あるいはモノとみなさなければ興奮しないと感じるという事実は、意外な方角、犯罪学者たちによって病として記述されている。
サイコパスですら、いままで考えられていたよりも遙かに多い割合で、通常人に立ち交じって暮らしているのが判っていて、自分のやさしい夫が、夜の暗闇のなかでは、自己の性的興奮を得るために、眼の前で自分が組み敷いている妻である自分を、そのあいだだけモノとして眺めている、という、考えてみれば、これ以上恐ろしいことはないような事態も、毎晩、世界中のあちこちで起きていることを、われわれはもう知っている。

強姦は、相手の人間性を否定して、自分のほうだけが人間であると規定する一瞬によって引き起こされる。

短いスカートをはくのをやめて、若い女が夜中にひとりでウロウロするのをやめれば強姦が防げる、という文明が存在する世界の人間が聴いたら、少し顔をそむけて、冷たい苦笑をする以外に反応のしようがない意見を述べる「作家」がいて、あきれたことがあったが、強姦被害は踝まであるスカートをはいて、午後3時に「ふしだらな格好が性被害を生む」と妄執に取り憑かれた表情で書いている80歳の作家の上にも、ちゃんと発生するのは、80歳の女の人でも臆さず警察に被害届けをだすニュージーランドのような国では、たくさん記録が残っている。
警察に通報する可能性が少なく、自分に対して反撃みこみが小さい相手を、彼らは常に物色しているからです。

がんばれ、ガメ!
朝ご飯、今日はわたしのほうがつくってあげるから、食べたら、もういっかい、やろうね!
今度は、わたしが上でいいから!
さっきのは、けっこういい線だったぞ

と、その頃大好きだった人に励まされながら、シーツのあいだで、気息奄々、息が絶えそうになっている21歳の大庭亀夫は、しかし、もうすぐ、前よりは少しは賢くなって、
相手も人間で、自分とまったくおなじことで、でも感じ方や考え方は異なる個人で、どんなに大変でも理解しなければならなくて、その魂の内側には、繊細な装飾や、大好きな人の父親や母親が莫大な量の愛情を注いで育んだ、精緻な宇宙が広がっているのを観るだろう。
ひとりの人間の魂は、巨大な伽藍をなしていて、もし性暴力にでもあえば、その伽藍は一瞬で破壊されて、残るのは瓦礫で、あれほど巧緻で美しかった伽藍は跡形もなく崩れて、二度と再建できなくなることを、21歳の、ややマヌケな顔をした青年は学ぶに違いない。

いつか会ったひとは、自分の身におきたことを述べて、
「死にたい」と繰り返し口にした。
何度も何度も殺されるようなものだ、と述べていた。
そのことを思い出す たびに、吐いて、心臓がしめつけられるように苦しくなる、と言った。

ガメ、しかも相手は、まだ生きているのよ!
わたしは何度も何度も殺されるのに、あの男は、この同じ町で、いまでものおのおと生きているのよ!

では、ぼくはどうすればいいのか。
立っていって、その男をなぐり殺してくればいいのだろうか。

夜のもとで、
防御もなく、
ただ世界の冷たさに震えている

悲惨は、目を凝らして見ないと見えてはこないが、
落ち着いて、勇気をもって霧の向こうを見つめると、声を殺して、顔をおおって泣く、何千という女の仲間たちの姿が浮かび上がってくる。
きみに、あの人達を助けるなにごとか、出来ることがあるかどうかは疑わしいが、
あちこちからあがってくる幽かなうめき声は、きみにも聞こえるはずだけど。

せめて、眼の前にある悲惨を、ないふりをすることだけはやめて、悲惨を直視する訓練を自分に課すべきなのかもしれない。
なにも変わらないかも知れないが
そこから何かが始まるかも知れない。

さもなければ、きみは、たったひとりの死を死ぬしかないのだから。

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