荒っぽさの効用について

初期の艾未未 (Ai weiwei)の有名なパフォーマンスに漢王朝時代の壷を床に落として割ってみせる、というのがあった。
あるいは、Ai weiweiは、これもたいへん有名だが古美術価値ばりばりの新石器時代の壷に「コカコーラ」の商標を朱で描いてしまう。

http://dailyserving.com/2010/07/ai-weiwei-dropping-the-urn/

Alison KlaymanがつくったAi weiweiについての素晴らしいドキュメンタリ
「Never Sorry」のなかで、Ai weiwei自身がインタビューに答えて「両方とも本物だよ」と述べている。

Ai weiweiは殆どの作家がなんらかの集団に属している中国の芸術家のなかでは極めて異例な「一匹狼」で、いまに至るまでどこにも属していない。
いつもひとりで、自分の二本の足で歩いて、尾行してくる中国の公安警察の開けさせたクルマの窓にクビを突っ込んで「なぜ、おれを尾行する? ふざけるな。イヌ」と悪態をつく。
天安門の前にたって中指をつきたてた(中国政府にとっては)とんでもない写真を世界中に公開する。

http://nyogalleristny.files.wordpress.com/2012/06/aiweiwei_finger.jpg

中華人民共和国60周年の記念で鼻高々の政府の面子をたたきつぶすように、ビデオカメラの前に立って「Fuck you, motherland」と述べる。

夜中に嫌がらせにやってきた警官に銃の台尻でなぐられて重傷を負って入院開頭手術で生と死の境をさまよい、戻ってきてやったことが、この「Fuck you , motherland」だった。

初めてAi weiweiを見た人が不思議に思うのはAi weiweiには「自由への闘士」や「勇敢な政治運動家」というにおいが少しもないところであると思う。
大地の上に自分の2本の足で立っている自然の人が、政府という絡みつく根のように自分の行動や思考を妨げる組織を煩わしがって、怒っている。
ときどき、自分でも制御できない怒りが突然あらわれた龍のように空を割って暴れだす。

Ai weiweiは自分を逮捕しようとする警官に「やれるものならやってみろ、このクソ野郎」という。
ツイッタでは「通りで独裁に向かって投石するくらい愉快なアウトドアスポーツはない」と書く。

ある欧州人は「Ai weiweiのなかのフーリガン」という表現を使った。
Ai weiweiというひとのなかの「湧きだして奔出する怒り」を表現し得て妙であると思う。

中国の知識人たちはAi weiweiの感情にまかせたような政府へのすさまじい個人の怒りの表現をみて、「これまでの自分達のやりかたではダメなのだと悟った」とインタビューで述べている。中国人の芸術家や知識人は伝統的にもっと穏やかな口調で、しかし巧緻な皮肉で政府を揶揄する伝統を持っていたが、そんなやりかたではまったくダメだということをAi weiweiが教えてくれた、という。
「知性のきらめき」などは国家にとっては鳥の糞ほどの影響もない。

Ai weiweiは「戦う芸術家」などではない。
Ai weiweiはどんな場合でもAi weiwei以外のものであろうとしない。
驚くべきことに、全体主義の圧政下の中国社会のなかですら、Ai weiweiは一個の気儘な芸術家としてふるまってきた。
自由人として自分の足で歩き、でかける先々でやりたいことをやった。
相手が自分の自由を邪魔していると感じれば、それが14億人の国民を恐怖政治で戦かせ口を結ばせている政府に対してでもおおっぴらに中指を立てて怒った。
自分という人間は中国の部分などではなくて、一個の全体であって、国家はその厳たる事実をうけいれなくてはならない、ということをあますことなく表明してきた。

絵描きが絵を描くのは、そうしないではいられないからである。
音楽家が音楽を作るのも、そうしないでいると自分のなかの「音楽」が出口を失って魂が爆発しそうになるからだろう。

自由を間断なく必要とする人間が自由を規制しようとするものに対して(自分の予測をすら裏切って)牙を剥いて戦うのも、事情が少し似ている。
自由がなくなれば、自分の肉体は生き延びていても魂は死んでしまうと知っているからであると思う。

日本の伝統的な統治のやりかたは「国民に自由を求める気持ちを起こさせないようにする」ことだった。
外国人から見ると道徳的に無軌道にさえ見える中国人の「なりふりかまわぬ個人の自由への希求」を中国政府が日本式のやりかたでバネを外すようにして従順な無力のなかへ落とし込んでいかなかったのは、日本のひとが考えるよりもずっと意識的になされたことで、冒頓単于の昔から、北虜南倭、他民族に侵略され、あるときは、清王朝のように長期に渡って支配された経験から、「個人の内部の自由を保存する」のは中国文明の知恵であって、それこそが漢民族がいままで生き延びてきた力の源泉だった。
中国人は、自分達の「わがまま」こそが民族の生命だとよく知っている。
あれほど他人をロボットのように扱うのが好きだった毛沢東でさえ、中国人たちが時に死を賭してまで野放図を発揮することを自分達の民族の健康さのバロメーターとして喜んだ。
むかし、中国人の友達に「しかし日本人は個人を部品にするような社会をつくって成功したじゃないか」と述べたら、表情も変えずに「周辺民族というのは、そういうものなんだよ」と言うので驚いたことがあった。
中国人たちの考えでは人間の魂そのものが、「わがまま」でなくなってしまえば、民族は衰退に向かって一直線にすすむしかないものであるらしい。

落ち着いて本を読んでみると、毛沢東とAi weiweiにはフーリガン的な野放図さを爆発させるデーモンのようなものが内在するという点で重要な共通点があるが、当たり前でもあって、その強烈な野放図さと妨げるものが何もない欲望と自由の追究に中国人の原像がある。
中国人にとっては心を枉げてなんだか人間でないもののようになって黙々と規律に従うのは文明をもたない野蛮人であることと同義である。

中国人はだから日本のように教育や社会道徳、文化をとおして人間を従順に改造してゆく方法を選ばずにわがままな人間の集団を行政的に強圧支配する方法を選んだ。
その端的な結果のひとつが「天安門事件」で、年長のひとたちのなかには鄧小平があのとき、「3千万人程度の人間を殺したところで中国という国にとっては痛くも痒くもない」と述べたのをおぼえているひともいるだろう。

天安門は一方で無数の中国人たちを「覚醒」させた。
Ai weiweiが政治的メッセージに関心をもつようになったのもやはり天安門事件がきっかけだった。

日本は天安門事件のように自国民を血の海に沈めるようなことはしない国である。
子供達が学ぶ教科書を政府が綿密に検定し、小さいときから反抗心は入念に取り除いて、学校では「静かにしなさい」「よく考えてから意見を言いなさい」「他人の迷惑を考えなさい」と「まず全体を見て、それから自分の行動を(全体の理解が得られるように)決めなさい」と言われるもののようである。
そうやって社会の部品として学校から社会に出てくる頃には高いクオリティコントロールを経てつくられた「Made in Japan」の高品質な国民としての諸条件を満たしていることが期待される。

もしかすると訓詁的な科挙を意図的に積極的に活用して清朝の漢民族を骨抜きにし、反抗の気力を萎えさせていった故事が頭のどこかにあったのかもしれないが、日本は近代に至って「賢い」ことに国民を溺れさせる、という方法を思いついたように見える。
首相になった宮沢喜一は「あなたは大学はどちら?」というのが初対面の若い人への決まった挨拶で、帰ってくる大学の名前が「東京大学」か「京都大学」でない
場合には、すっ、とそっぽを向いて、それきり何も言わなかったという。
日本のひとは、そういう試験のスコアが疑似階級をつくる社会で、12歳と18歳の二度にわたって深くおおきく傷つき、「賢さ」への屈折した憧れを強めていった。

日本語インターネットの世界には子供じみた顕示欲に駆られた歴史研究者もどきのひとびとが特に多いようだが、ネット上の、いかにも「わし賢いし」のポーズをとる人たちがいちようにみおぼえた研究者口調を借りて、福島第一事故のあとでも「生物屋は、こう言うが」「物理屋には物理屋の考えがあって」というような大学言葉の口吻でいいあっているひとが、「現実の世界ではこのひとはどこの大学で教えているのだろう」と人に尋ねて見てみると、工業高校の出身であったりするのが判って、なんとも言えない気持ちになったりした。

中国人たちのように個人の自由への希求を万力で抑えつけるような社会がうまくいくのか、日本のひとたちのように、個人の魂を改造して、国家が必要とするような形に広義の教育を通じてQCを発達させてゆく方法がうまくいくのか、わしには判らない。
ただ自分がどちらかを選べと言われれば、暴れることに衆目が一致する「理」が明然としているだけ、中国のほうがまだいいかなあー、と思う。
でもそうそう銃の台尻で頭をどつかれたり、広場で暴れていたら戦車に取り囲まれて兵隊に撃たれまくったりするのもかなわないので、やっぱり「国」とかは、さっさとなくなってしまえばいいのになあ、と思う。

Ai weiweiはAlison Klaymanのドキュメンタリのなかで、「自由は奇妙なものだ。
自由がないときにはどうでもいいように思えるが、いったん自由を手にいれてしまうと、どうしても自由なしではいられなくなる」と述べている。

Ai weiweiが飼っている30匹の猫のなかで、ただ一匹だけが正面玄関のドアのノブに飛びついてドアを開ける方法を知っている。
その猫がドアをあけたあとを、他の猫たちがぞろぞろと抜けて歩いてゆく。
「でも、ドアを閉める方法は知らないのさ」というとき、きっと、Ai weiweiは自分のことを考えていたのだと思います。

19/February/2013

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日本の古典_その5鮎川信夫

見知らぬ美しい少年が
わたしの母の手をひいて
明るい海岸のボートへ連れ去っていった

というのは鮎川信夫が1948年に書いた「秋のオード」の初めの三行である。
堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に出てくる「良き調和の翳」とは鮎川信夫のことだが、当時、早稲田大学の学生だった鮎川への友人達の表現は定まっていて「初めからおとな」「出だしから完成されている」というようなものだった。
書くものの情緒が時代に寄り添いすぎていたために言葉を微調整しながら読むのが難しいが天才詩人であった牧野虚太郎ややはり突出してすぐれた詩を書いた森川義信が安心して詩を書けたのは(牧野と森川は戦死してしまうが)この戦後に「荒地」という重要な現代詩の同人に育ってゆくグループの中心に鮎川信夫という批評精神が立っていたからだと思われる。

初期の鮎川信夫の詩を読むと鮎川信夫自身、田村隆一ほど巧みではないかもしれないが(詩の世界では「巧妙である」ということは重要なことである)すぐれた詩人であって、しかも後年の印象とは異なって、もともとは抒情詩人としての資質にすぐれた人だった。

17、8歳の頃の詩だと思うが、「寒帯」という詩には
「あおく、つめたく….

青い魚が跳ねると
沼の静けさが、かへってきた」

という詩句がある。
沈黙のひろがりのなかで一瞬するどく輝きながら跳躍して反転するものを見る、というのは鮎川信夫の基本的な感覚のひとつで、鮎川の目のなかでは世界に生起する事象というものが、すべからくそのようなものとして見えていたに違いない。

田村隆一は詩で重要なこととして「patheticであること」を挙げているが、文章のなかにおいてみると、実はこれは英語の用法としてヘンで、田村隆一が意図したことを意味しないが、(多分、田村隆一が生きている間は、この巨大な詩才をもった詩人に遠慮してまわりの英語人たちは田村の数多い英語の謬りを指摘しなかったのではないだろうか)しかし意味をくみとれば、やや高みに浮いた観念の息苦しい悲壮さ、というようなつもりだったのだろうと思われる。
田村隆一は、その感情をあらわすために高い、よく出来た金管楽器のような透き通る音をもったが、鮎川信夫は、もっと低い、しかし稠密な音色をもっていた。

抒情詩人の抒情を破壊して、鮎川信夫が一種の「破壊された情緒」を身につけて詩の中へ帰ってきたのは鮎川が徴兵されて、スマトラ島の戦線に送られ、傷病兵として帰還したあとのことだった。

詩人とは不思議な種族である。
詩人は、どんなに良い詩を書いても詩を書くことによっては暮らせないことを知っている。
戦後の日本では「プロフェッショナルの詩人」ということになれば、谷川俊太郎と吉増剛造と田村隆一の3人のみが挙げられるが、谷川俊太郎はコピーライターと作詞家、詩人、という遠目には似てみえなくもない三つの職業をうまくひとつの職業のようにみせることによって自分が生活するに足るだけの収入をつくっていった。
田村隆一は「詩人」として雑誌グラビアに自分のヌード写真を売った初めてのひとである(^^)
このひとは「詩人」という職業名の光輝を、どのように世間に売っていけば収入に変わるかよく知っていた。
一種、古代ギリシャの哲学者のような渡世ができたひとだった。
吉増剛造のみが真に、直截に「詩人」として生きようとしたが、そのことにどういう意味があったのか、ここでは述べない。
いずれ吉増剛造の詩について述べるときに、書いてゆくことができると思います。

詩人にとっては詩に没頭すればするだけ、生活はできなくなってゆくわけで、それでも、良い詩を書くために午後の約束も放擲して詩人が机に向かうのは、うまく言葉が言葉をつれてきて、自律的に運動をはじめ、自分の思考というようなものは停止して、魂が中空に浮かんで危ういバランスを保ちながら浮いているような、あの感覚がなくなれば退屈で死んでしまうしかない、と感じるからである。

鮎川信夫は後世の評価である「鋭利な文明批評家」であるよりも、遙かに、本質的に詩人だった。
しかも、日本の近代史のなかでは稀な、絶望しきった魂をもつ詩人だった。
晩年、鮎川信夫のファンたちを悲嘆の底に蹴り落とした「戸塚ヨットスクール称賛事件」は、要するに、鮎川がついぞ人間の世界に希望をみいだしたことがなかった、ということの当然の帰結にしかすぎない。
鮎川信夫の魂のなかにあっては暴力と非暴力どころか、死と生すら境界をはぎとられて、ひとつの結界に同居するふたつの相似のものにしかすぎなかった。
口にはだせなかったものの、当時のひとのなかでは、鮎川の長屋の家へたびたびやってきては何時間も陰気な顔をして黙って正座して座っていて、じっと鮎川が原稿を書くのを眺めていては、また黙って帰っていったという、「遅れてきた兵士」であった、吉本隆明だけがその機微をしっていたでしょう。

「この病院船の磁針がきみらを導いてくれる」と船長は言う、
だが何処へ? ヨオロッパでもアジアでもない
幻影のなかの島嶼……..

という「病院船」の一節は文明批評というより鮎川信夫というデッドパン(deadpan)ジョークの一片だが、この詩が書かれた戦後直ぐの日本人よりも、いまの日本人のほうが広汎に詩句の意味を理解できるはずである。

あるいは、

姉さん!
餓え渇き卑しい顔をして
生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ
死にそこないのわたしは
明日の夕陽を背にしてどうしたらよいのだろう

_「姉さんごめんよ」

という詩句はまるで(いつもこのブログ記事にでてくる)我が友ラザロの内心の声のようである(^^;)

それは一九四二年の秋であった
「御機嫌よう!
僕らはもう会うこともないだろう
生きているにしても 倒れているにしても
僕らの行手は暗いのだ」
そして銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら、
ひとりずつ夜の街から消えていった

という出だしの「アメリカ」は、「銃を担ったおたがいの姿を嘲」る、いかにも知的な日本人の男同士の情緒が当時からのものであったことを伝えながら、極めて欧州的な語彙でアメリカを語った詩である。

随所に仲の良い友人である田村隆一への皮肉をちりばめながら鮎川は知性と言語への感受性がアマルガムをなした後年の鮎川信夫の詩の(言葉は悪いが)「冴え」を見せてゆく。

「Mよ いまは一心に風に堪え 抵抗をみつめて
歩いてゆこう 荒涼とした世界の果へ……
だが僕は最初の路地で心弱くもふりかえる
「僕はここにいる 君がいないところから
君がいるところへ行きつくために
ここにいる僕はここにいない」と……」

あるいは

「一九四七年の一情景を描き出そう
僕は毎晩のように酒場のテーブルを挟んで
賢い三人の友に会うのである
手をあげると 人形のように歩き出し
手を下すと 人形のように動かなくなる
彼等が剥製の人間であるかどうか
それを垂直に判断するには
Mよ 僕たちに君の高さが必要なのだろうか?」

「過去にも未来にもさよならして
亡霊たちに別れを告げよう
あるいはまた亡霊たちを飲みほして
この呪わしい夜を祝福しよう
だから僕がとくに眼ざめるとき
きみがとくに眠るとき
死はいっそう強い酒にすぎぬだろう」

「僕はひとり残される
聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!
いまは自我をみつめ微かなわらいを憶いだす
影は一つの世界に 肉体に変わってゆく
小さな灯りを消してはならない
絵画は燃えるような赤でなければならぬ音楽はたえまなく狂気を弾奏しなければならぬ」

「すべての人々の面前で語りたかった
反コロンブスはアメリカを発見せず
非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
われわれのアメリカはまだ発見されていないと」

鮎川信夫自身が、この「アメリカ」という詩についての「覚書」のなかで、
「我々が時や場所や思想に関して、本当に自分の血となり肉となるような仕事を目指すならば、自己の精神に加えられた現実的強制に言葉の秩序立った包括的な世界の再組織を志向しなければならぬ」と書いている。

「アメリカ」という詩を書いて鮎川は復員兵としての自分の主観を通して世界をみる視点から脱して復員兵としての自分を外から眺める言語的な仕組みを獲得した。
鮎川信夫の戦後の出発は、要するにその視点から「荒野」を見渡すことによって出発したのだと思う。

「アメリカ覚書」の最後に、鮎川信夫は「私は断片を集積する」と書いた。
それは詩人の思想的宣言のように聞こえる。

1950年、鮎川信夫は有名な「橋上の人」を書く。

「橋上の人よ
どうしてあなたは帰ってきたのか
出発の時よりも貧しくなって、
風に吹かれ、浪にうたれる漂白の旅から、
どうしてあなたは戻ってきたのか。
橋上の人よ
まるで通りがかりの人のように
あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。
新しい追憶の血が、
あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。
橋上の人よ」

「誰も見ていない。
溺死人の行列が手足を藻でしばられて、
ぼんやり眼を水面にむけてとおるのをーー
あなたは見た。
悪臭と汚辱のなかから
無数の小さな泡沫が噴きだしているのを…..
「おまえはからっぽの個だ
おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ
おまえは一プラス一に
マイナス二を加えた存在だ
一プラス一が生とすると
マイナス二は死でなければならぬ
おまえの多孔質の体には
生がいっぱい詰まっている
おまえのからっぽの頭には
死が一ぱい詰まっている」

「蒼ざめた橋上の人よ、
あなたの青銅の額には、濡れた藻の髪が垂れ、
霧ははげしく運河の下から氾濫してくる。
夕陽の残照のように、
あなたの褪せた追憶の頬に、かすかに血のいろが浮ぶ。
日没の街をゆく人影が、
ぼんやり近付いてきて、黙ってすれ違い、
同じ霧の階段に足をかけ
同じ迷宮の白い渦のなかに消えてゆく。」

「孤独な橋上の人よ、
どうしていままで忘れていたのか、
あなた自身が見すてられた天上の星であることを……
此処と彼処、それもちいさな距離にすぎぬことを……
あなたは愛をもたなかった、
あなたは真理をもたなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。」

初めて、この「橋上の人」を読んだとき、日本語の練習の一環として、詩句を暗誦していきながら、この詩が、日本の近代を語り尽くしているように思えて驚いたのを憶えている。
日本には、こんな人がいたのか、と驚いたものだった。
それから暫く鮎川信夫の詩を夢中になって読んで、もちろん西脇順三郎や田村隆一、あるいは岩田宏に較べると暗誦しにくい詩だったが、それでも全集に収録されていた詩はほとんど憶えてしまった。
鮎川信夫という一個の知性に強い敬意を感じたが、そういうことも、日本語練習の途中では(その頃はまだいろいろな「聴き取りにくい声」を聴き取れていなかったので)珍しいことだった。

鮎川信夫は、他のすぐれた詩人と異なって言葉を信用しなかった。
田村隆一や西脇順三郎や岡田隆彦、あるいは吉増剛造のような詩人たちとの、おおきな違いであると思う。
言葉だけではなく、鮎川信夫は戦前の価値も、日本の伝統も、戦後の「民主主義」も、人間の恋愛の感情すら、ほんとうには信用しなかった。
アメリカの物質主義の軽薄を熟知していながら、巨大なアメリカ車で乗りつけて友人たちを呆然とさせた。
彼が信じた友情は死者との友情だけであった。
吉本隆明が大江健三郎に「もっと深く絶望せよ」という公開書簡を送ったとき、鮎川信夫はなにも言わなかったが、きっと、鼻で嗤っていただろうと思う。
鮎川がみていた世界は、絶望を口にする他の文学者たちの見ていた世界よりも遙かに漆黒の闇に満ちた世界であって、その闇は神をすら塗りつぶしてしまうほどのものだったことは、詩を読めば明瞭に了解される。

日本語がたどりついた批評精神のひとつのピークであると思います。

10/February/2013

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Misery

イランではSigheと呼ぶが、他のムスリム世界ではMutahと呼ぶのだと思う。
「期間を限定した結婚」のことで、6ヶ月は長期とみなされるだろうし、短ければ1時間ということもありうる。
信仰のない人間には複数の妻をもてることを利用した体裁の良い売春としか思えないが、ムスリムの世界では律法で定まった厳とした制度であって、Ulamaたちが厳かに成立を述べる。
期間は限定されていても婚姻は婚姻なので、sigheの期間中は女びとは近所に出かけるのであっても夫の許可を求めなければならない。
ムスリム人は、「夫婦間の話し合い」と呼ぶが、夫のほうは妻の許可を求めたりはしない。
日本でも「進歩的なひとびと」はムスリムを好む傾向にあるが、話し合いといっても文化が異なれば内容は異なるのだと思われる。
実際、男たちは、さんざんsigheで支払う金額を値切っておいて、「念のために述べておくが、これは私の性欲のためなどでは到底なくて、アラーの御心に適おうとするためにするのである。
あなたが不特定の男と寝床をともにするような不道徳からあなたを守ろうという善行であることを忘れては困る」という。
するとUlamaがおごそかに頷きながら、「この人は良い人間で立派な行いをしているのだと、私はあなたに言わなければならない。アラーも祝福するであろう」と森厳な面持ちで言う。
夫の年齢は65歳であって、「2ヶ月間」の約束で「妻」になる女びとは17歳である。

地震が来る前のクライストチャーチで、午前1時、ひとりでぼんやりカセドラルスクエアの広場の階段に腰掛けてフラスクからウイスキーを飲んでいたことがある。
50人くらいはいるのではなかろうかと思われる中国系の若い衆から少し離れて、遠巻きにするようにして、何組も、2,3人づつ佇んでいる欧州系の、いかにも顔つきが悪い若い衆がいる。
ふらふらと踊るような足取りで3人組が近寄ってくると、
「ヘンなやつが座ってる」と奇妙な節をつけて言い出す。
「ヘンなやつが座ってる」
「いけすかないフラスクから、すました顔で気取ってウイスキーを飲んでやがる」
「話さないところをみると唖かまぬけかどっちだろう」
ひとりが腕に手を掛けたので、相手の薄汚い刺青のある腕をつかみ返す。
黙ったまま相手をすると、3人とも靴もひろわずに逃げてゆく。
目の前にある警察官たちの詰め所の前には、中年の警官と若い警官が立っていて、にやにやしながら、こっちをみている。

どこかから悲鳴がきこえてくる。
「このクソアマ!」という声がきこえる。
3、4人の若い男たちがげらげら笑う声がする。
警官達は、相変わらず、立っている。
中年の警察官のほうが大欠伸をすると、若い警官をうながして建物のなかへはいっていった。

クライストチャーチの、いつもの、週末の夜の光景である。

ビクトリア通りに出る代わりにマンチェスター通りのほうへ歩いて行くと、
売春婦達がたむろしていたものだった。
目の前を通り過ぎると、なんともいえない目で、じっと顔を見上げられているのを感じる。
手をのばして体に触れる女びとはいるが、声をかけてきはしない。

男が運転するプジョーから降りてきて、煙草をくわえたまま、服のしわをのばして、下着をなおす女のひとがいるが、それとそっくりの情景を、アビニョンから20キロくらい離れたオープンロードの交差点(大陸欧州では、そういう場所に売春婦たちがよく立っている)で見たことがあったが、クルマも同じプジョーの207で、男もでっぷり肥った50がらみの大男、降りてきた女びとは、そっくりの、小柄で華奢な10代にしかみえない女びとなので、同じ売春婦と客が、フランスとニュージーランドに同時に存在するような不思議な気持ちになる。
呆気にとられて、じっとみつめていると、女びとは気が付いて、小首を傾げて、なによ?という様子をする。
わしは首をふって、女びとに向かって手を挙げると、もうすぐ夜が明けそうなハグレーパークのほうへ歩いていった。

いつかラジオのZM
http://www.zmonline.com/player/listenlive/
を聴いていたらEd Sheeranの「The A Team」

が流れてきて、不意をつかれてしまって困ったことがあった。
心の準備がないときに流れてきては困る曲というものが世の中にはあって、「The A Team」も、そのひとつだからです。
バランスシートを眺めていた目に涙が浮かんで、そのうちにボロボロキーボードの上に落ちてきて、難儀、どころではなかった。

世の中には「売春は悪だからなくさなければいけない」という人がいて、「身を持ち崩すのは必ず理由があるのだから本人に責任がある」というひとがいる。
韓国人の慰安婦といったってカネをもらってたんだろう、と嘲るように意見を述べるうらやましくなるほど卑しい心根をもった人間もいれば、売春を根絶するために一生を投げ出す修道女もいる。
一方で現実の問題として自分の身体を売らなければ生活できない人間はいるのだから、せめて強姦の泣き寝入りやギャングの支配を避けるために「非犯罪化」をすすめるべきだと主張して修道女と激論を戦わせて売春の「非犯罪化」を達成したフェミニストたちがいる。
あるいは売春婦の境遇に唇をかみしめる人間を偽善者と呼んで自らの「偽善のない知性」を誇る愚か者もいるだろう。

きみはなんだか部屋の天井の明かりをつけるのが鬱陶しい気持ちがする夜に、テーブルの上にいくつかろうそくを灯して、そのろうそくの揺れる炎のなかをみつめながら、人間の脳のはたらきにもスイッチがついていればいいのに、と考える。
耳のうしろに、ONとOFFのスイッチがちゃんとあって、もうこれ以上なにも考えたくない夜には「パチッ」と音をさせて切って、安らかに眠れるようになっていればいいと思う。

考えてばかりいるのが嫌になって、きみはコンピュータをつける。
「ほんものを探し求めて歩くような田舎くささには耐えられない。この世界のものが全部贋物ならいいのに」と書いてから、きみは、ほんものも贋物もほんとうはどうでもよくなってしまっている自分に気が付いて唖然としてしまう。
遠くから叫び声がきこえてきて、絶望にみちた声の調子は聞き取れるのに、なにを言っているかがうまく聞き取れない。
悲惨が夜を取り巻いて、あちこちでひそひそと囁きあっている気配はわかっているのに、悲惨の姿をみようとして目をこらすと、それは闇に溶けて、また視界の端で微かな形象をつくっている。

政治であり、社会であるというが、ほんとうはそれが「人間そのもの」であることを知っている。
なぜ、そうなのか、尋ねる気もおきないほど、きみはそれを熟知しているのだと思う。

きみはろうそくを吹き消して、考えていたよりもずっと深い暗闇に安堵しながら、光なんてなくたっていいな、と呟いてみるだろうけれど。

(画像はモニとわしが花棚の下のテーブルで夕飯を食べていたら顔をのぞかせたポサム。まだ赤ちゃんだのい)

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憲法9条の終わりに

1945年の日本の敗戦はそれまでの世界史のどこにもないくらい徹底的なものだった。
8年間をアメリカですごした松岡洋右は「アメリカで長く暮らした私にしかアメリカ人の国民性はわからない。アメリカ人とは一発なぐってから話し合いをして友達になるものだ」と不思議な意見を述べて、そのとおりの外交を行ったが、一発なぐられたほうのアメリカは、殴られたのをよろこんでお友達になるどころか、原爆を落とす予定の都市以外のほとんどの都市を通常爆弾とナパーム爆弾で焦土化して、その上に二発の原爆をおとして、本土上陸作戦の前哨となった沖縄では火炎放射器で洞窟にたてこもる日本軍を甕にはいった泡盛ごと焼き払ってしまった。

日本語世界からは、ちゃんとみえないが、太平洋戦争はアメリカと他の連合国にとっては「正面の敵と戦っているときに後ろから殴りつけてきた卑怯者との戦い」だった。
「正面の敵」はいうまでもなくヒトラーが率いるナチで、チェコスロバキアという工業国を併合したあと、あっというまに富裕な先進国フランスまで手中にしてしまって、実際、工業生産高の合計からいってもアメリカとイギリスの連合くらいではとてもおいつかないほどの軍備を身につけそうでもあった。

「バスに乗り遅れるな」という。
当時の日本で流行った標語で、ドイツがフランスをたたきつぶしイギリスとアメリカに勝ちまくって弱っている隙に、欧州勢がアジアにもっている財産をいそいでぶんどらないと損だ、という意味です。

他の当時の欧州指導者の大半と同じく、ヒトラーはアジアの権益に興味をもっていなかった。
「どうでもいい」というのがホンネだったでしょう。
期待があったとしても日本がロシア人の最新機甲師団のうち数個師団でも極東にひきとめておいてくれれば助かる、という程度の期待だったと思うが、日本陸軍中最強であったはずの関東軍がノモンハンで1939年にソ連の機甲師団に救いようのないほどのボロ負け(日本語の歴史では健闘して引き分けたことになっている)をした結果、スターリンはジューコフ麾下の精鋭機甲師団群を極東においておく必要性を認めなかった。
全部、「祖国戦争」、すなわち対ドイツ戦争に軍事リソースを振り向けてしまいます。
それでもヒトラーはアフリカ戦線のイタリア軍に対する半分ほどもがっかりしたり、怒ったりした形跡はなくて、初めから日本軍には何も期待していなかったのがみてとれる。「アジア人」(この場合はロシア人も含んでいる)全体に対する、とりつく島もないようなヒトラーの軽蔑を考えれば、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれません。

イギリスで、じーちゃんたちの話を聞いていて、へえ、と思うのは、日本から派遣されてくる陸海軍の将校は「女の世話」を要求するひとが多いので有名で、例の「当国では、女びとの愛情は恋愛によって得ることになっておりますので、なにとぞご了解ください」と返答したという、よく知られた、ほんまかいなという逸話を初めとして、日本軍将校たちの「女を世話してくれ」の要求に悩まされたという話は、英語の回顧談のあちこちに散見される。
ナチ・ドイツは、あたりまえのように、日本から派遣されてくる軍人たちに娼婦を「なんとか令嬢」「なんとか夫人」ということにしてあてがっていたようで、売春婦を提供することを拒否したイギリス側の態度をほぼ例外なく「人種差別」と受け取った日本人将校達のあいだでは「ドイツはいい」というのが陸海軍を問わず評判になってゆく。

そうやってドイツが獲得していった日本軍人間のドイツ贔屓の「世評」にくわえて、フランスが負けたせいで目の前にぶらさがった「盗んでも怒る人のない果実」であったインドシナ、ドイツ軍に決定的におしまくられて周りの植民地から完全に孤立している連合王国のもつ広大なインド=マレーシア、あるいは国そのものが消滅したようなオランダがもっていたインドネシアを目の前にして、火事場泥棒というか、あわてて力の空白だった地域を抑えにかかったのが日本の「太平洋戦争」だった。

ダグラス・マッカーサーのような太平洋地域の司令官は補充もなにもまともに行われないアジアにいて、「欧州戦線がすべて」で、太平洋戦線を露骨に「三流戦線」扱いするアメリカ政府に、自分を三流に扱う心根を感じて怒り心頭であったし、軍人事務屋の頂点としてシンガポールの極東軍総指揮官に任命されたアーサー・パーシバルに至ってはまともな戦力はないも同然で、兵士の訓練度はゼロに近く、兵器の質にしても、たとえば戦闘機で言えば、ブリュースター・バッファローという、複葉戦闘機と戦っても負けそうなとんでもない代物が主力だった。

ウインストン・チャーチルがいったん日本が参戦した場合、シンガポールの陥落を予期していたことは、ほぼ間違いない。
口にするわけにはいかないので黙っていただけです。
プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを派遣して負けたときの国民への言い訳にする一方で、対ドイツの国防に必要なものはいっさいシンガポールへは送らず、極東方面への兵力補充は輸送船団が北海で死闘を繰り返しながら行っていたロシアへの増援よりも優先度順位が低かった。

日本語の世界で語られる太平洋戦争が「日本民族の英雄的な叙事詩」であるのは当然だが、日本語以外の、たとえば英語で語られる太平洋戦争は、常にドイツとの戦況にからめて解説される。
わし自身も日本がそのときどきにどのくらいやれたかは「ドイツと連合国の戦況次第」だったのだと思っています。
そんなことをあんまり詳しく書いても仕方がないので、書かないが、1930年代と40年代の日本軍についての印象は、日露戦争を戦った日本軍と較べると「びっくりするほど弱い軍隊」で、具体的には戦力としての「衝撃力」が小さいので、特に陸戦においては相手を屈服させる力がまったくなかった。
衝撃力、というのがわかりにくければ、もっと衝撃力の範囲をせばめて「火力」と言い直してもいいかもしれません。

1900年代初頭、日本の軍隊が強いことは、常に事前の見積もりがあまいアメリカはともかく、欧州の軍人はみな知っていた。
言うまでもなく日露戦争の詳細なレポートが行き渡っていたからで、国力は貧弱なのに軍隊だけは強力で、国ごと巨大な暴力の国と意識されていた。

ところが1937年に始まった日中戦争では(日本では点と線は確保したが面としての中国は広大で…というもっともらしいだけで、戦争をする前から中国にも地図があったのを知らなかったような説明がされているが)欧州から見て「弱い」と思われていた中国軍よりも更に弱いのが明らかになって、各国の武官達に「へえ」と思わせた。

余計なことを書いておくと、日本にいるあいだじゅう、わしは過去の雑誌、週刊朝日、少年サンデー、平凡パンチ、主婦の友、ミセス….を蒐集するのが趣味で集めてまわったが、ついでに自費出版の本もかなりの数を蒐集した。
だいたいにおいて、読むのが苦痛になるような「自分史」が多かったが、なかには、たとえば戦後国民党軍にくわわって対中国共産党の戦いを戦ったひとの台湾への撤退記やインドネシアで独立運動に加わったひとの手記のような記録もあった。
そういう自費出版のうち、意外だったのは、なかにはロシア戦に始まって、中国、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカと相手を変えつづけながら通信兵として戦った、というような数奇の運命のひともいて、そのひとの書いたものを読むと「なんといっても中国兵が勇敢で最強だった」と書いてあることだった。
「自分の死を省みない」という点では中国国民党兵は日本兵にまさった、と書いてあって、その頃は日本兵についてまるで異なる印象をもっていたわしは、ぶっくらこいてしまったものだった。

だから実際に中国兵が通常信ぜられているよりずっと強かった可能性もなくはないが、しかし、欧州勢が驚いたのは日本軍の「衝撃力のなさ」だったと思います。
戦局を決定するだけの火力がないせいで、いつまでもいつまでもだらだらと戦争をしているだけである、と欧州勢は観察した。
これは、とてもではないが近代戦を戦える軍隊ではないな、とおもったでしょう。
当時の本を読むと、「第一次世界大戦に参加しなかったからだろう」という推測がもっとも多くて、わし自身も、第一次世界大戦にごく小規模な戦闘をのぞいて参加しなかったことが日本の軍隊を決定的に「時代遅れ」のものにしたのだと、いまは思っている。

もうひとつ、この時期(1930-40年代)の日本軍に特徴的なことは軍紀の弛緩で、南京に入城した松井石根がたるみきった軍紀に不安を感じて「諸君は皇軍の名を汚してはならぬ」と将校・兵士を集めて演説したら聴いていた兵士達がいっせいに笑い出したという。
それも兵士のみならず若い将校たちに至るまで嘲りの笑いを隠さなかったので、傍でみていたひとびとはびっくりしたようです。

「星の数よりメンコの数」という言葉は一面では当時の軍隊の有様をよく表していて、上官というものはそれほど敬意を払われなかった。
特に新任の将校などはまったく言う事を聞いてもらえず、突撃と言えば、おまえが行け、と後ろから声がし、戦況不利となると、具合がわるいので後方の病院に下がらせてくれ、という下士官がでたりした。
もっと後の南方戦線では、ジャングルが多い事をいいことに「道に迷って会合できなかった」という理由をつくって、戦闘が終わるまでジャングルの安全なところに隠れている小隊がいくつもあらわれる。インパール作戦になると中隊ごと戦闘を「さぼる」部隊まで出てきてしまう。

よく考えてみると日本の軍隊が欧州人の目を見張らせるほど強かったのは立見尚文のような正規の軍人教育を受けなかった将校たちが幅を利かせていたころまでで、欧州のコピーでつくった士官学校と海軍兵学校の出身者で指揮官を固めるようになったあとは、役人根性むきだし、というか、あとの霞ヶ関の上級試験と同じで士官学校の入校時の成績が退役するまでものを言う軍隊というガッチンガッチンの官僚組織のなかで縄張り争いや繁文縟礼の言い合いに勝った「要領のよい」ものだけが生き残ってゆく「近代化された軍隊」になってからは、他国に聞こえるほど役人根性がしみついた軍隊になって、
日本のひとがいま考えるよりはずっと弱い軍隊だったように見えます。

http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/

国家的理想の観点から憲法第9条を改正するかどうかに懸命に集中して考えるのは大事なことだが、いざ第9条が改正されたときに、どういう軍隊になるかを十分考えないで「国防軍」が出来てしまうと、「国防軍」が暴走して侵略軍になりかねない、というのは、アジア人全体の憂慮であると思う。
中国が無茶苦茶ばかりしていて、アメリカも欧州もさしてマジメにアジアのことを考えているわけではないのが明かなので、アジアのあちこちで、中国様に対抗できるのは日本くらいのものかなあーと思っているひとがいくらもいるのを、わしはよく知っている。
わしに言うのは平気でも、日本人に面と向かっていうと、軍服を着たいばりくさったマヌケな日本人が統治者になって、兵隊たちがまた夜中に家に突然やってきて、奥さんや娘さんを強姦しに来そうな気がするからです。

1945年にずたずたにされた国民としてのプライドを守る為に、戦後の日本人は、たとえば「少年サンデー」の巻頭ページ、というようなものを使って、当時の子供を相手に、「日本軍はアジアのために立派に戦った。負けたのはやむをえぬ物量の差であった」と懸命に語って聴かせた。
巻頭図解でなくても、むかしの人気漫画をみると「大空のちかい」「ゼロ戦レッド」「紫電改のタカ」…無数、といいたくなるほどの「戦争マンガ」があって、さらには貸本マンガ(40年代-60年初頭)というところまで遡ると、こちらに至ってはもう殆どが「日本が悪かったわけではない」という「大東亜戦争」肯定のマンガの洪水で、水木しげるのようなひとまで何十という戦記マンガを描いている。

そういうマンガや、あちこちで「少年向け」に書かれた戦争中の物語は、ちょうど司馬遼太郎が発明した幕末や明治がほんものの歴史に姿を変えていまの日本を闊歩している
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/13/坂の上の雲_「明治時代」は存在したか?/
ように、日本人の「記憶」となり、英語人が聞いたら死ぬほどびっくりすると思うが「日本は白人の人種差別に抵抗して戦争を戦ったのだ」という主張を信奉している日本のひとは意外なくらいたくさんいる。

戦後、日本に生まれた子供たちが誇りを失わないで生きてゆかれるようにという元敗残兵たちの切実な祈りをもって書かれた物語やマンガが、クスリが効きすぎた、というか、歴史的事実のほうをぬぐいさってしまって、「ほんとうは日本が正しかったのだ」と説明されだしているいまの時代に、「国防軍」が出来てしまうのは、こわいかなあー、と、つい考えてしまうのです。

11/December/2012

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魚が釣れない午後

ニュージーランドでは27センチ以下の鯛は釣れても海に戻してやらなければならないことになっている。
小さい鯛が釣れてしまうと、「きみは、日本で釣られていたら鯛飯にされていたのがわかっておるのか、もっと立派になるまで二度と釣り針にかからないよーに」と説諭して海に帰す。
「サビキ」を使うとどうかするといっぺんに3匹も4匹も釣られてしまうので、しみじみ「27センチ以下の鯛がこの餌を食べるのを禁止する」というサインを針の近くにつけておけばどーだろーか、とモニと話し合う。

鏡のように凪いだ海を小さなパワーボートで30キロくらいしか離れていないところにでかけて、錨をおろして、モニとふたりで日光浴をかねて釣りをするのは楽しい。
モニは眠るのが大好きなので、つばの広い帽子を顔の上にのっけてすぐに眠ってしまう。
仕方がないのでモニの釣り竿も監視しながら、ぼんやり海をみつめている。
通常はオークランドの海は、よく判らない理由によって、餌をつけなくても、真鯛や鰺のような魚はいくらでも釣れる。
でも、潮目に関係があるのでしょう、ときどき、2、3時間もソナーにたくさん魚が映っているのにまったく釣れなくなってしまうことがあります。
そーゆーときは、モニを起こすのも嫌なのでひとりで、ぼんやり海をみている。
中身を食べてしまってからテーブルの上で展げてみたチョコレートの銀紙のような海面に午後の太陽が乱反射して、なんだか現実でないような美しさであると思う。

おおきなボートとは違って小さいほうのボートででるときには、片道50キロもいかないのが殆どなので、3Gの圏内で、キンドルで面白そうな本をダウンロードして読んでいることもある(^^)
でも、たいていは、なあーんにもしないで、魚がかからないときには30分に1回くらいしかかからない魚の相手をするほか、ただもうぼんやりと空を眺めたり、クーラー(10mくらいまでの小さな船はバッテリーの容量の都合でだいたいエアコンや冷蔵庫はつけない)の氷のなかから取り出した白ワインを開けて飲みながら、モニと付き合いだしたばかりの頃のことや、子供のときに妹やデブPたちと一緒にツリーハウスで世界を救済する計画を練って、小川で二隻の縦列艦隊をつくって近隣に潜んでいると思われる悪の組織に見張りの眼を光らせたりしていた果てしのないガキわし時代、いまは麻薬戦争で行けなくなっているが大好きだったメキシコの内陸の小さな町や村、
http://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/メキシコのねーちゃん/
(リンクは自分で書いたブログ記事なので昔から読んでいる人は押さないよーに。日付が1970年になっているのはアカウントを閉鎖したときに記事がどっかにぶっとんでしまって年月がデタラメになったせいでごんす)
なかんずく、まだ神様がとどまっていそうな風情の教会の公園に鋭い目をした子供たちが屯していて、
「写真を撮ってもいいかい?」と聞くと、
「絶対ダメだ」と鋭く言い放つ、いま考えてみれば、なんのことはない、もうすでに麻薬に染め抜かれた区域だった町のことを思い出したりする。

メキシコとならんで「特別な外国」だった日本のこともよく思い出します。
遠い国をおもいだすときというのは面白いもので、そこに滞在していたときに面白いと思っていたものは脳髄にたいした印象を残していなくて、思いがけない断片、氷に包まれた別荘地の道に忽然とたっていた鹿の姿や、トンネルを抜けた途端に、いちめんに広がる稲田を埋め尽くす黄金色の「はさ」、あるいは午後に鎌倉の家で眼がさめて、二日酔いで朝比奈の切り通しを歩いて、ふと見上げると覆い被さるように建っていた(いま絶対鎧を着たおっちゃんがクビをひっこめたのが見えたよーな)中世の砦のあと、池子の弾薬庫の縁の丘を散歩してみつけた旧海軍の標識、ポール・ジャクレーの家の石標、
http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/
(このリンクも前と同じく自分のブログ記事なので注意も前に同じ)
そんなことばかりおぼえている。
義理叔父はいまはなくなった浄明寺の鮨屋に行くのに西脇順三郎が戦争中に「学問もやれず絵も描けず」と呟きながら歩いた切り通しを通ってでかけて、帰りは「出るに決まっている」ので、くるまの通行が激しい県道を通って帰ったものだった、というが、その「出るに決まっている自然石のトンネル」で夜中まで幽霊が大好きなイギリスからやってきた友達と酒を飲んですごしたりした。

福島第一事故があったから日本に行けないのではなくて、政府が事故によって日本中にばらまかれた危険を認めないから日本に行けないのだと思う。
日本に偵察にでかけた義理叔父や海外に住む日本人の友達たちから聞いたことを考えると、なぜ日本の政府は「放射性物質が危険だと思い込んでいる」国民のために産地を県別から市町村別にしたり、サイトを使って製品の流通経路を明らかにしたりしないのか、ぼくにはよく判らない。
放射性物質を危険だと思う自分の国の国民がいて、一方では、それを「こうだから絶対に安全だ」と証明できない非力な科学の現実がある。
「消せない火」であることで有名な原子力は、同時に人体へ与える影響が皆目わからない物質を原料とする「火」でもある。
事故のあと、「わかっている」と言い張る「学者」が日本ではたくさん出たが、そんなことは多少でも学問の常識が存在する大学ではありえない強弁でしかない。
それを強弁と呼ぶしかない理由は簡単で「明瞭に科学的にわかっている」などとは、単なるウソにしか過ぎないからである。

安全が証明できないのならば、なぜせめて、放射性物質を危険であると思う国民のひとりひとりが余分なコストを自分で負う形でもいいから、「自分で判断して危険でない食品を選択する」ためのチャンスを与えないのだろう。
県別表示を町村別表示に変えるどころか、「国産」表示に変えるという聞いていて吹きだしてしまいそうなマンガ的な露骨さも、それが個々の人間に自分の生命を大事にさせないための工夫であることに思い当たると、大笑いしかけた顔が凍りついてしまう。

「あの遠い国と同じ海でつながっている」というのは安物のロマン主義の常套句だが、無数の瓦礫が漂着するカナダの太平洋岸の人間たちは、おもいがけないなりゆきで「同じ海でつながっている」現実を考えなければならなくなってしまった。
太平洋戦争中に蒟蒻糊で紙を貼り付けてつくったしょぼい風船にくくりつけられた爆弾がオレゴンまで飛んで6人の人間を殺したのに、福島から放射性物質がとんでくる心配はしなくてもよいというあなたの根拠はなにか、とインターネット上で、「あなたは距離というものが判っていない」と述べた水力発電コンサルタントにかみついているアメリカ人の主婦のひとがいて、ほんとだよなー、と考えたが、世界中で原発擁護の記事を書いている人に多い職業である「元水力発電コンサルタント」の肩書きを無視して考えても、「科学に知識がない」主婦の直感のほうが正しそうに思われる。

人間には、ごく基本的な権利として、自分の判断で健康で病気にならない生活を選択する自由があると思うが、日本では、それは贅沢な望みにすぎないことを政府は簡単に白状してしまった。
日本人に生まれるということは日本という「全体」の国益に資する「部分」として国益に生みこまれることであって、日本人である限り、それ以外の人生はない、ということを日本政府はこれ以上ない明瞭さで提示してしまった。

日本の政府に欠落しているのは個々の国民に対する想像力で、これだけ露骨に「日本には個人の幸福を考える意思はまったくない」と言葉にして表明しておいて、個々の国民、特に若い人間が絶望しないと考えるのは、はっきりした想像力の欠如であると思う。
どこの国の政府も実務家を中心に「国民は愚かだ」と考える傾向をもつが、日本ははっきりと、どれほど国家に対して好意的な人間でも幻想をもてないほど明瞭に政府が国民を生きた愚昧としてしか認識していないことを示して、「個人の幸福」を否定してしまった。

日本の政府は、いわば、「国」というものを腐らせる中心に腐食をすすめる種子を植え付けてしまったのだと思う。
国というものを腐らせる中心、という表現がわかりにくくて「愛国心」と言い換えたければ言い換えてもよいかもしれない。

日本がここに至るまでには、たとえば知識人や芸術家たちの長い長い期間に及ぶびっくりするほどの無責任・無節操や、「ほんとうのことは別のところにあるが、言葉にするときは、こういうふうに言うものだ」という「タテマエ」という名前の集団的ウソの伝統があった。
言葉を現実からはぎとり、作家は「面白い物語」を書くことを誇り、なぜ自分が書く物語が社会を反映して破綻しないかを訝しくおもわない文学者の鈍感の伝統があった。
際限もなく続いて数え上げていける、たくさんの理由があるが、
その最大のものは言葉というものの恐ろしさを社会全体が理解できなかったことだろう。
言葉が現実から剥離してしまうと、すなわち、自分たちが盲いて、耳が聞こえなくなり、声がでなくなるのだ、という単純な事実に気が付かなかった。
いまの日本の姿は、影が自分の体についてきてくれなくなって途方にくれるピーター・パンに最も似ていると思う。

夕方が近付いて風が吹き出すとモニが眼を覚ます。
だいたいそれと時を同じくして魚…鯛、シマアジ、鰺…がびっくりするほど釣れだす。30分ほどでクーラーがみるみるうちにいっぱいになる。
ニュージーランド人が普通たべない鰺に眼をつけてレシピを研究したのは、「そろそろ30歳なのだから、健康のために魚を食べるように」という健康コンサルタントのおばちゃんの意見にしたがって始めた新事業だが、食べてみると取り立ての鰺は「食用に適さない」という図鑑の記述とは異なって、押し鮨やその日のうちに料理するフライや「シオヤキ」は不味くはない。
鮨屋でモニとふたりで二日間に亘って受講した「ガイジン向け鮨クラス」も役に立っている。アメリカ人のおばちゃんが話をしながら、身振り手振り、刺身包丁をふりまわすので、あの1回だけで「鮨クラス」は終わってしまったそうだが(^^) 

ふたりで船上でシャンパンを開けて、のんびりしてから暮れなずむ海を港に帰る。
夕陽で真っ赤に染まった海面を時速30ノットで辷るようにして戻る。
桟橋に着くと他の「海のひとびと」と冗談を言い合って、ときどきは近海の情報を交換する。
あの浜辺の沖は、夜、停泊すると夜光虫が綺麗なんだよ。
あそこは浅瀬に船を泊めて買い物にに行きやすいが、よく船泥棒が出るので注意が必要だ。
あのチャネルにはイルカがよく出るのさ。それを狙ってシャチの群れも来る。

…そうしているうちに、多分、ただこのブログ記事を書いているという理由だけで続いている「日本」の影が頭からするっととれてしまって、また日本語でものを考えるまでは、すっかりどこかに行ってしまう。
こういう習慣は、なんだかヘンだ、と自分でも思うが、なぜ日本語にこれほどこだわりをもったのか自分で理解できるように所まで、どうしても、その場所まで行けないものだろうか、と考える。

その、静まりかえった沈黙と巨大な悲惨がたたずんでいる場所へ。

05/December/2012

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初心者のためのラスベガスガイド

Macy GrayとSealのコンサートへ行った。
前座のMacy GrayがおめあてでSealはつけたしです。
Pearl というコンサート・シアターはThe Palmsというラスベガスの「ザ・ストリップ」からはおおきく外れたところにあるホテルで、初めて行くホテルだった。
運転手おっちゃんに、「ここに泊まると、遊ぶのに大変だのお。どういうひとが泊まるんだろう?宿泊費が安いのかな」と訊くと、大声で笑って
「若いひとが多いんでさ。考えもなしに泊まるところを決めてしまう、若くてアホなひと」という。
宿泊費も同じなのだそーである。

Macy Grayは相変わらずサイコーで、あのやる気のなさそーな態度から歌い出すと、たくさんのひとを泣かせてしまう。
カバーでEurythmicsの Sweet Dreamsを歌ったが、なにしろ前座なのでMacy Grayの名前もしらない人でがやがやしていたのがしぃーんとなってしまうくらいよかった。
Macy Grayの歌のうまさは普通ではない。
モニもわしも特別な席でなくて、Sealになればダンスフロア化するのがわかりきっている前列は避けて(Sealなんかで踊るとうらぶれた気持ちになるであろう)そのすぐうしろの舞台からの中心線に近いボックスの席を買った。
StubHub
http://en.wikipedia.org/wiki/StubHub
で買った切符で、誰かが買った切符の転売なので切符の名前がモニとわしの名前ではないが、アメリカでは普通のことです。

開演まで30分くらいあったので、モニはシャドネ、わしはウイスキー・ソーダを飲みながら、まわりのひととのんびり話して待った。
両隣は地元のラスベガスのひとで片方のカップルはもう22年ラスベガスに住んでいる。
「ファイナンシャルコンサルタント」だが、いまはトラックの運転手やいろいろな仕事をやって凌いでいる。
いまは誰にとってもたいへんなときですのい、というと、その通り、でもアメリカは希望の国だから、なんとかなると思ってる、という。
(あたりまえだが)堂々としています。
必ずなんとかなる、と信じられるところがアメリカの良いところで、40代らしいそのひとは決してそう思い込もうとしているわけではなくて、実際に、いちどはうまくいかなくなったが頑張れば成功できる、と考えている。
努力して「がんばれば」、そのうちに成功するだろうと信じている。
どんな時代でもアメリカという社会の強みはそこにあったが、いまも変わらないよーである。

よく中年をすぎて「人生おわりだあ」というひとにあうと例としてもちだすが、マクドナルド創業者のレイ・クロックが「マクドナルドシステム」を設立したのは52歳のときだった。
カフェとペトロルステーションのおやじだったサンダースじいさんがフランチャイズビジネスを始めるのは62歳のときである。
地面を踏みしめた二本の足を踏ん張って、固く握りしめた両手の拳で世界と正面から向き合って戦って勝とうとするのは、いまではピューリタンの伝統であるより「アメリカ」の伝統であるだろう。

斜め前(眼の前の席ふたつは空席)のカップルはロス・アンジェルスから遊びにきている。
最近のコンサートでは写真を撮っても怒られないことになっている(撮ってはいけない場合はアナウンスがあります)ので、おばちゃんはサムソンのS3でとりわけSealの写真を撮り狂っていたが、そのS3のケースが鰐皮のケバイケースだったので、どこで買ったか訊いてみるとS3のケースはどこにでもいろんなの売ってるわよ、と不思議そうに訊き返された。
ニュージーランドでお籠もりさんをしているうちに、すっかり田舎人になってしまっておるよーだ(^^)

コンサートが終わってからモニとふたりでバーで少しだけ酒を飲んだが、土曜日のカシノはチョーうるさいので、クルマを呼んで、まだ12時になったばかりだったがアパートに帰ってきた。
乾いた熱風が気持ちのよい深夜のテラスで、ふたりでコクテルをのんで3時頃まで話しました。

そろそろラスベガスも飽きてきたので移動しようと思うが、ラスベガスで遊んでいるうちにオレンジカウンティの友達とやろうと思っていた凍死についての考えが変わってしまった。簡単に言えば、やる気がなくなってしまったので、それならばいちどニュージーランドにもどればどうかとモニが提案しておる。
家のまわりのフェンスを直す手配をするのに自分でも見ておきたいし、庭をつくりなおしているのも見ておきたい。
そーですか。
ほんじゃ、いちど帰るべかしら、と思う。

そうなると明日でもあさってでも、いつ帰るかわからないが、ラスベガスはこの前のブログ記事でも書いたように主にMGMグループの大戦略によっておおきく変わったので、忘れないうちに書き留めておきたいことがある。

むかしjosicoはんがバルセロナに行ったときに、わしの大事なお友達であるjosicoはんのためにバルセロナガイドを書いたことがあったが、それに近いものになればよいと思う。

わしはどこかへでかけゆくときガイドブックを読む習慣をもたないが、子供の時からなんべんも行ったことがあるところばかり行く、という理由のほかに、ガイドブックを読んででかければ、そのガイドブックを読んだ他の人がそこにたくさん来ている、という単純な事実のせいもある。
中国の人気ガイドブックに書いてある店は中国からの観光客であふれているし、日本のガイドブックに出ているらしき店は日本のひとばかりでごったがえしている。
これを逆手にとって、たとえば旅先でのロシア人の挙動を観察したい場合にはロシアのガイドブックを手に入れる、という方法がありそーな気もするが、やってみたことがないので有効な方法かどうかわかりません(^^)

初めてラスベガスに行くとすると、ラスベガスはもともと短期滞在客用に設計されているので、「The Strip」のなかのどれかのホテルに泊まるのがよい。
夏ならば華氏100度(摂氏38度)を軽くこえるのでコンサートがあったThe Palmsのようなホテルに泊まるとでかけたり戻ってくるたびにタクシー待ちの大行列に並ばなくてはならなくてたいへんであると予想される。
毎度リムジンを手配しておく、という手もあるが、これには英語が十分に話せる、という条件がいります。アメリカに限らず一回借りのリムジンはちょーえーかげんなので、いろいろ取り決めておく必要がある。
「多少の英語」では間にあわないのではないかと思われる。
このブログ記事を書くために訊いておくべ、と訊いてみたところではあとで述べる「MGM要塞」までタクシーで20ドル、リムジンで40ドルだそーでした。
わしはどーしているかというとニヒヒ人なので、着いた日から同じストレッチリモを二台借りっぱなしである。
費用はここに書くのをはばかる。

初めてでも英語が不自由なく話せる、という場合は短期でもアパートという手がある。
ラスベガス地元人推奨の滞在方法でもあります。
だいたい80平方メートルから100平方メートルというようなホテルの部屋に較べれば遙かに広い2ベッドルームが中心でホテルの室料とあまり変わらない。
前に中国系人に教えたら「アジア人が全然いないので気後れする。落ち着かない」と述べていたが、気にしなければいいだけのことである。
MGMシグネチャというようなアパートメントなら、アパートメントから始まってMGM、http://www.mgmgrand.com/
ニューヨーク・ニューヨーク、
http://www.newyorknewyork.com/

エクスカリバー、
http://www.excalibur.com/?CMP=KNC-Google-Excalibur_Corp

ラクサー、
http://www.luxor.com/

マンダレイ・ベイ
http://mandalaybay.com/

と全部「動く歩道」のある屋内移動路(いちぶ屋外あり)でつながっていて、夏に散歩しても熱中症で死ななくてもすむ。
おもしろがって、歩数計をポケットにいれてモニとふたりでマンダレイベイからMGMまで屋内だけを通って散歩してみたらみっつあるシグネチャの端っこの棟まで行って帰ってきて15000歩であった。

日本で有名なカシノ・ホテルの
バラージョ
http://www.bellagio.com/
やシーザースパレスは
http://www.caesarspalace.com/casinos/caesars-palace/hotel-casino/property-home.shtml?

「ザ・ストリップ」のずっと北のほうにあって、前者は噴水のショーと高級ぽいレストラン(ドレスコードがありまんねん)、後者はマジなギャンブリングで有名だが、アトラクションで有名な
Treasure Island
http://www.treasureisland.com/

The Mirage
http://www.mirage.com/

を含めた北のほうのホテルは、それぞれ孤立していて歩いてはカシノ間を移動しにくいので、冬に散歩をかねていくか(^^) 何度かでかけてラスベガスに行き慣れてからのほうがよいような気がする。
ついでに書いておくとラスベガス人は誰に訊いても「ラスベガスに来るなら3月が最もよい」という。
アホが少ない。気候が心地よい、そのひとによって挙げる理由は違うが「3月がもっともよい」という点だけは一致しているのが玄妙である。

ラスベガスは1993年くらいから賭博と売春の町から脱皮を目指して町の改革をつづけてきて、実際家族連れが多い。
とはいうもののラスベガスはラスベガスなので、
わしがいまいるアパートメントは全館禁煙・賭博禁止というへんなアパートメントだが、
普通のホテルはいまでもどこにでも灰皿があって喫煙もできれば、朝から酒をのんでいるひとがおおぜいいます。
昨日もアパートメントの通路のドアで、午後1時、立ちふさがるようにしてスーパーモデル風ねーちんがふたりで、ドアをおもいきり押して「開かない!」と叫んでいて、
鍵がないとあかないんだわ!鍵!鍵!とゆっているので、
わしがちょっとどいてね、とゆって、引いて開けると、
まあ、魔法使いなのね、あなた!素敵だわ!
と感嘆していたが、要するに、ふたりともひるまっからデースイしているのです。

と、書いていこうと思ったが、きりがない。
博打はいまはポーキーズ(スロットマシン)が全盛で、いまみると償還率は1¢マシンで88% 5¢マシンで89.8% 25¢マシン・90.7% $1マシン 93.5% $5マシン 94.3%
$25マシンが 96.8% Megabucksで85.3%
だと書いてある。
不思議に思うひとがあると気の毒なので書いておくと、何に書いてあるかというと
ラスベガスのそこいらじゅうに転がっている「Casino Player」という雑誌に書いてあるのです。

わしは賭博という悪徳が好きなのでブラックジャックのテーブルの上でオカネを増やしたりなくしたりするが、ほんとうはラスベガスに短期滞在して賭博をすると賭博だけの旅行になってしまうので、よくないのではないか、と思う。
そこいらじゅうでやっているショーを観て、最近はラスベガス全体がそれを売り物にしている「シグネチャレストラン」(有名シェフの名前が売り物のレストラン)で食事をして、バーで酒を飲んで遊ぶくらいがよい。
やはりこれも行ってみるとアジア系のひとはゼロに近いので、日本語ブログ記事に書くのはどうだんべ、と考えたが、
若い人はクラビングに行くとよい。
ラスベガスには、アメリカでずっと流行していて(とゆっても流行の終わりだが)、そのうちに日本にも流行がやってくるに違いない「Wet Club」もいくつかあります。
週末にジェット機に乗って、踊り狂いにくる、あるいは見知らぬ相手とイッパツやりにくる若いにーちゃんやねーちゃんで溢れている。

具体的な場所はおしえてあげないが、砂漠の、誰もいない夜中の丘のうえからラスベガスを一望にできる自然の見晴らし台のような場所がある。
おしえてあげない、最もおおきな理由は、ぜんぜん安全ではないどころか無茶苦茶危ない場所だからで、到底他人にすすめることはできないが、賭博にまけて、くたびれた頭で、ぼんやりラスベガスの輝くネオンの海(なにしろラスベガスではマクドナルドの「M」までネオンで点滅している)を眺めていると、自然と「オカネというのは自分の一生にとってなんであるか」
「物質的繁栄とは人間にとってどんな意味があるか」ということを考える。
そうすると、なんだか面白い気がしてきて、もうしばらく人間として過ごすのも、そんなに悪い考えではないだろう、という気がしてきます。
全体としてはおおきな「歓楽」にすぎなくても、よく眼をこらしてみれば、そんなに裕福ではなさそうな男が積み上げた100ドルチップの山が、あっというまに減っていくのを酒を何杯も飲んでアルコールの力でカネを急速に失う痛みに耐えていたり、絵札をふたつテーブルの上にもつ中年の女びとがディーラーの前に4枚のカードでつくられた21を見て、耐えかねるように手のひらのなかのチップの山をテーブルに小さく叩きつけていたり、実際、週末の夜中になると、ミニマム25ドルのテーブルが多くなって、あのくらいの賭け方だと、5000ドルくらいは負けると思われる。
それがブラックジャックプレーヤーの常で平静を装っていても、みていて、ショックを受けて、いまにも崩れ落ちそうになる心を必死で支えてテーブルの前に座っているのがみてとれる。
あるいは、よくラスベガスのおっちゃんたちが冗談に「最近、売春婦がいなくなったのでなくて、普通の女の子が売春婦そっくりの恰好で町に出てくるようになったから区別がつかねーだけだ」とゆって、がはは、と笑うが、夜にいちど部屋にもどって、ぐっと濃くした化粧と脚をおもいきりみせつける短いスカートにstilettoで、若い女びとたちが真夜中の頃になるとくりだしてくる。
ラスベガスは犯罪発生率は低くても、主に中西部の田舎からやってきた「XXの花」や「○○の夜明け」ちゅうような、その町で男たちに恋い焦がれられた若い女びとが、物語にするのも憚られるほど退屈でお決まりの転落を遂げるので有名な町なのでもある。

MGMを中心としたラスベガス開発の企業家たちが1993年から目指してきた「ラスベガスの大衆化・健全ワンダーランド化」は功を奏して、いまの「明るい、健康的で、少しだけ悪徳の香りがする」ラスベガスのイメージはアメリカ人のあいだに定着してきたが、
人間に欲望がある以上、ラスベガスはやはり本質的には物質社会の強者であるお金持ちの町で、そうやって考えてみれば、なんのことはない普段の世の中と同じで、お金持ちたちだけが思考を停止させて楽しみ、普通の人間にとっては破滅の陥穽にみちた、それでいて表面だけは平穏な「悪魔の遊園地」と呼びたくなるような場所にしかすぎないのかもしれません。

4/August/2012

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ラスベガス

ラスベガスから「悪徳の町」の最後の名残、売春婦たちの姿が通りから消えたのは2年前のことだった。
テーブルにチップが積み上がるといつのまにか傍らにやってきて耳の中にあつい息をともに不思議な言葉を囁いたり、はなはだしきに至っては物陰にひっぱっていかれて、何事かだとおもってついていくといきなり跪いてジッパーを開け始める売春婦達の姿はこの町の名物だったが、2年前の大クリーンアップで通りからもカシノからも姿を消してしまった。

わしは大学生のとき、この町の19歳の売春婦のねーちゃんと一緒にカシノのカウチに座って、肩をならべて、くっくっとお互いの冗談に息を苦しくしながら、それぞれが認識している宇宙についての意見を述べ合ったことがある。
いちばん嫌なのはデブおやじよ。だって、なかなかいかなくて重いんだもん。
豚のおばけみたいな尻に手をまわしてくれと言って、ハニーハニー、って薄気味悪いったらありゃしない。
日本人や韓国人はいい。とてもいいお客さんよ。こわくないし。
あれが小さくて、すぐに終わってくれる。
淡泊なんだよね、あのひとたち。
なに言ってるかよくわかんない人ばっかしだけど、礼儀正しくて、いいひとたちなんだと思う。
ねえ、今度、一緒にEvanescenceのコンサート行かない?
この町にくるんだって。
それとも、もうすぐ、あなたは帰ってしまうの?
あなたみたいな人は、ずっとこの町にいればいいのに。

売春がなくなったわけではなくて、それより安くても高くても「おかしい」という、一時間200ドルから1300ドルの範囲で何万人という数の女びとが、働く身になってみれば世の中でも最も不愉快であるに決まっている重労働に従っているのだという(バーテンダー談)
いまでは電話をかけて教えられたサイトの写真から誰を買うか選ぶ方法や、いろいろな方法があるそーです。

ポーキーズ、と英語では言う。スロットマシンやポーカーマシンが洪水のように広がって、一晩で5万ドルすって顔を真っ赤にしてテーブルを拳でたたく赤ら顔の中年男に代わって背をのばしたまま膝の上にハンドバッグを置いて、何回もATMと機械との間を往復して静かに3000ドルをする主婦がカシノのルーザーの「典型」になっていった。

悪徳はカードをめくりながら昔話や自分の故郷の町の話に耽るディーラーたちの手から離れて、「777」やコミックのキャラクタ、いまではゴジラやモスラの姿まである ドラムにプリントされた明るい色彩の絵柄になって、むかしはチップですらない現金でやりとりされた欲望もいまはデジタルクレディットになって敗者たちの痛みを和らげている。

悪徳がなくなってゆくのは寂しい。
悪徳というものには人間性にとってどこかしら本質的なところがあって、いつでも帰ってゆける家のような、母語のような、不思議な暖かさがある、
というようなことを前に父親に述べたら、かっかっか、と笑われて、それはお前が悪徳に染まったことがないから、そう言うのさ、息子よ、お前は、どうやら父親が考えていたよりもずっと善良な人間であるらしい、とゆわれて、なんだかバカにされたようで、ひどく腐ったことがあったが、案外そういうものなのだろうか。

クラビングに疲れて、モニとふたりで帰ってくる明け方近い夜、
間延びしたクルマのなかでシャンパンを飲みながら、まだNe-Yoを聴いている。
運転しているおっちゃんにお願いして、砂漠へ向かってもらう。

クルマの冷蔵庫のシャンパンを開けて酔っ払ってモニとふたりで昔の話をした。
楽しかったので、すぐに部屋に帰りたくなかった。
窓をあけてみると、熱風がふきこんでくる。
仕切りを開けて運転おっちゃんに、今年はずっとこんなですか?と訊くと、
今年は特別に暑い、という。
でも、私はもともとシカゴの人間なので、ラスベガスのことはそれほどちゃんと判らない。
マンハッタンはいちどだけ行った事があるが、とても嫌なところだった。
それに、アジア人が多すぎる。
恥ずかしいが、私は人種差別は嫌いだがアジア人とは相性が悪いんでさ。
中西部の人間が好きなんです。
失礼ですが、ガメさんはイギリスの方ですか?

モニと頬をよせあっていろいろなことを思い出して話した。
大喧嘩をした日に、家に帰ってカウチに座って泣いていたら、夜になってあなたがやってきた。
ずぶ濡れになって、両手に抱えきれないほどの花束をもって、飼い主に置き去りにされたテリアみたいに哀しそうな眼をして、あなたはそこに立っていた。

モニがわしを好きな理由を述べよ。
「ガメは初めて女のひとと話をするときに女の胸に眼をやらない、わたしの知っているゆいいつの男性だった」
「えっ?そんなの理由としてひどいと思う。第一、女の胸を見ながら話しする男なんていないでしょう?」
みんな見るわよ。ちらっと見るのよ。例外なんていなかった。
ガメが初めてです。
胸を一瞥もしないで、いつも、それがあたりまえであるかのように、ずっとわたしが紹介する友達たちの眼だけをみて話してた。
このひとはほんとうはゲイなのだろうか、と思ったこともあった。

レストランでわたしをびっくりさせるようなことをやってみて、とふざけて言ったら、あの格式の高い「N」で突然テーブルに飛び乗って、自分がどれだけわたしを好きかと演説しだしたと思ったら「I love my life」と急に大声で歌い出した。
ああ、このひとは根っから頭がおかしいんだ、なんてすてきなんだろう、と思ったわ。

砂漠の日の出をふたりでクルマの車体に寄りかかって眺めてから、モニとわしは帰ってきた。
悪徳の町ですら寝静まって、遠くから聞こえてくる救急車の声が聞こえてくるだけである。
エレベータのホールでも、まだ浮かれて踊ってるわしを掃除のおばちゃんが呆れ果ててみておる。

モニもわしもいつかは年をとって、悲惨なもの思いに沈むことがあるだろうか。
年をとるということは神様が残していった人間への底なしの悪意だが、それに逆らわないでうけいれても、やはり年をとることはそれ自体が悲惨にほかならないのだろうか。

わしにはわからん。
わしには判らないことばかりだが、でも、なんだか「判る」ことはもうどうでもいいような気がする。
世界を理解することになんて、どれほどの意味があるだろう。
曇ったガラスの向こうで刻々と死んでゆくアフリカのガキどもやすっかり破壊された精神のかけらを拾い集めようとして、病院の床にしゃがみこむ女びとたちが低くつぶやく呪詛の声を「理解」して、ただ耳をすませていることにどんな意味があるというのだろう。

そんなことに時間を費やすくらいなら、踊りにでかけたほうが良いよーである。
モニを抱き上げて、両腕のなかに抱きかかえて、寝室に運んで、ベッドの上に放り投げて、二番目や三番目の「小さな人」が生まれる結果を招来するかもしれぬ、いちゃいちゃでもんもんな時間を過ごしたほうが良いような気がします。
須臾は、畢竟、須臾にしかすぎなくて、それが「50年」というレッテルをもつに至ったのは、それが人間の意識にとって都合が良い時間意識の単位だったからに過ぎないには、よく考えてみればあたりまえのことであると思う。
あなたもわしも、その長い須臾のなかで他のひとのために涙したり、時の経過を悲しみながら年をとってゆく。
笑ったり、怒りにこぶしをふりあげたり、うずくまって泣き崩れたり、安らかな寝息をたてて眠る午後ですら、意識などとは関係なく、まして「思想」などにはおもいもよらぬ彼岸の時間を、生滅の時空間を流れてゆく。

考える葦であるよりはただの葦でいて、いまの一刻をより深く呼吸することのほうが大事なことなのかも知れません。

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激しい雨のあとで

オークランドの天気は、「海のまんなかにヨットを出していると思えばよい」という。
滝のような雨が降ったかとおもうと、次の瞬間には晴れている。
セントヘリオスの海岸で、海辺の太陽の光のなかを散歩していると5マイルほど離れたノースショアで豪雨が降っているのが見える。
ひどいときには、海がお日様と雨と陰った光とで斑にみえることもあります(^^)

クライストチャーチで歩いているのは、ほとんどの場合(クルマが買えない)ビンボニンと決まっているが、オークランドは都会なので、オカネモチもビンボニンも、男も、女も、じーさんも、若い衆も、いろいろなひとが歩いて移動している。
バスを乗り継いで、まだ未発達な鉄道に乗って、あちこちへ行く。
多分ケントにある町の名前をそのままつけたHerne Bayという町に行くと2億円を超えるのに車庫が無い、というニュージーランドらしくない家までたくさんある。
ポンソンビーとCBDというふたつの繁華街が歩いていける距離なので、忙しいオカネモチのなかには、「クルマなんかいらん」というひともいるのでしょう。

一方で、最近は変わってきたが、もともとはニュージーランド人には「傘をさす」という習慣がない。
雨が降れば濡れて歩く。
いまでも、ぐっしょり濡れて下を向いて歩いている人と、傘をさして歩く人と半々くらいだろうと思う。

雨のあと、カフェの椅子に腰掛けて行き交うひとを見るのは楽しい。
びしょ濡れになったことに神の悪意を感じたように、むっとした顔をしているパケハ(白人のことです)おっちゃんや、雨などふらなかったとでもいうように、濡れた髪の毛、モニとわしが日本語で「チョンマゲ」と呼んで喜ぶ、頭の上で髪の毛をまるく束ねたかっこうで、悠々と歩く、雄大な体格のポリネシア人の若い女びとたち、もう空は晴れ渡っているのに、広げたままにして乾かすつもりか、今度は日傘なのか、黒い傘をさしたまま、無表情に歩いて行く中国系のおばちゃん、いろいろなひとが歩いていくが、よく見ると、激しい雨のせいで少しだけ経験した興奮が歩き方にも現れているようでもある。

特に応援するというのでも、好奇心でもないが、なあーんとなく、官邸前の抗議が終わるまで起きていようかと考えた。
日本語ツイッタのアカウントを見ていたら、ジュラやオロナインさん、バカタレなことにお腹に子供がいるミナまでが、赤坂にいることが判ったからでもある。
NZは日本よりも3時間早い。
日本の8時は11時である。
デモは不思議なもので、そのなかにいると、自分が「特別な人間」などでないことが理屈でなくて判る。
「その他おおぜい」のひとりである。
目立ちたがりのひともいれば、なんだかコーフンに酔ってしまっているひともいる。
「シュプレヒコール」をあげたりはしないが、まわりのひとよりも少し上に出た、間の抜けた顔で、のんびり辺りを見渡してみる。
集団のなかにいるのに、どんどんひとりになってゆく。
なあんだ、やっぱり、おれはひとりなんだな、と考える。
「もうすぐ、前のほうでは警察の暴力沙汰がはじまるようだ」と隣のやはり背が高い体格のよい男が話しかけてくる。
「前に行こう」

日本では、幸いなことに、そこまでいかないよーだ。
たくさんのひとが金曜日に官邸をめざして、そして、さっさと帰って行く、という印象であると思う。
そういう、言わば、あっさりとしたデモのありかたを、ニセモノだ、単なる署名活動で実行力などない、という声もたくさんあるようだが、わしには、意見はない。
感想はあるが、ここで書きたいとは思わない。

なるべく気をつけていよう、と思っていても、普段の生活では「福島」という言葉を思い出さない。あの遠い国には集団行動も雑踏も嫌いなのに、やむにやまれない気持ちで赤坂をめざすジュラがいて、お腹に子供がいるのに、仕事のあとで、息せき切って駆けつけるミナがいる。そうやって、陸続と集まった、とうとう政府もごまかしきれなくなった数万という人の願いが物理的な人間の群になって現れ、官邸前に詰めかけている。
それをニセのデモだと言って嘲笑う人があり、「主催者側」は勘違いしていると皮肉に述べるひとたちがいる。

自分で飛行機を操縦して遊びにくるT(前にブログ記事に出てきた女びとと同じひとです)が、「ガメ、寿司たべに行こうぜ」という。
モニが、ガメはこのごろ日本料理はいっさい食べない、と述べる。
なぜ?と訝るTに、モニが日本の食材は放射性物質で汚染されているかもしれないこと、オーストラリアとニュージーランドはいろいろな国のなかでも例外的に食品の輸入規制が甘いので、ガメは嫌がって日本のものは何も食べない、と説明している。

Tは、「やべー、おれ、寿司食べちった。去年から20回くらい食べてるぞ。妊娠してねーだろな。Jと先月だいぶんワイルドなやつかましたからな」とゆって顔をしかめておる。
そーだった。日本では原子炉事故があったんだった。
チェルノブルのときは、母親が、もっと気をつけてたよーな気がするのになあー、と独りごちておる。

ソーセージをよく買いに行く肉屋のおやじが、
「この頃原発事故で日本人がいっぱい逃げてきてるの、知ってますか?」という。
いや、知らない。日本人が、多いの?
と、とぼける、わし。
「あっちにもこっちにも、うじゃうじゃいるんでさ。たまらねえよ。
このあいだKの不動産ブログにも、日本人が買い漁ってるせいで住宅の価格があがってる、と得意気に書いてやがった。あのバカ、自分はいいだろうが、日本人たちのために家が買えなくなっていく、ニュージーランド人はどうだっていいっちゅうんだろうか」
K、というのは新聞やブログで不動産情報を流している名前の知られた不動産エージェントです。
「第一、あの日本人たち、昼間から仕事もしねーで、ぶらぶらしてやがる。いったい、どういう奴らなんだか、みんな薄気味悪がってるんでさ」
昼間からぶらぶらしてるのは、わしも同じだぞ、悪かったな、というと、
おっと、こいつは失礼、とゆって、肉屋のおやじがそれで商売を繁盛させている、いかにも「善良そのもの」の笑顔で大笑いする。

家に帰ってから、Kがそんなことを書いているのか、と考えてブログを読んでみると、「不況の住宅市場を中国人たちのオカネが支えている」という記事が、肉屋おやじの話に出てきた記事のようだった。あるいは肉屋のおやじが言うように日本人についての記事が実際にもあるのかもしれないが、それ以上読む気がしないので、ページを閉じてしまった。

なんだか、やりきれない感じがするんだよ、モニと寝る前におもいきっていってみる。
人間には悪意がおおすぎる。
誰にも、他の人間のことをほんとうに心配する能力が、そもそもないみたい。
きっと、他人のことなんか、どうでもいいんだよ。
遠い日本の福島で子供が死んだって、誰かが白血病になったって、そんなことは、コーヒーを絨毯にこぼすことほども大変じゃないんだ。
アフリカで子供が死んでも、AIDSで死んだ赤ん坊たちの3フィートにも満たない墓の穴が見渡す限り並んでいても、自分の子供が足をすりむくほどのことですらない。
いったい、この便利な人間の感情のありかたは、どこから来たのだろう。
無関心という悪意は、なぜ当の無関心な人間を苦しめないように出来ているのだろう。

ひょっとすると、わしは涙ぐんでいたかも知れないが、わしの記憶は都合良く選択制で出来ているので、おぼえてない。

ガメは、そうじゃないんだから、それでいいじゃない。
モニは、そっと手のひらでわしの頬をなでながら言う。
まるで赤ん坊をあやしている調子だが、実際、そういうくだらない駄々をこねる亭主などは赤ん坊だとでも思わないと付き合いきれないのであるかもしれぬ。

激しい雨が降って、わしはたちすくんだまま、道路の向こう側で、次次に死んでゆくひとたちを見ている。こちらを見て、大きく目を見開いて、あんなに大きな声で叫んでいるのに、わしには何を訴えているのか聞こえない。
顔を両手で覆って、大声で泣いているのに、その母親が何を嘆いているのか、いくら耳をすませても聞こえない。
わしは、途方にくれて、たちすくんだまま動けなくなって、雨のなかで、ずぶぬれになっている。
驟雨のカーテンが、その怖ろしい情景を隠してくれることを願っている。
ただ、もうこれ以上の悲惨をみないですむことを、神ではないものに祈っている。

そうして、踵をかえすと、家のゲートを固く閉めて、もう人間のことなど考えるのはやめようと思うだろう。

もう世界は二度と人間を愛してはくれないだろうから。

07/July/2012

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官邸前の愚者の群

日本で毎週金曜日に行われているデモは、「官邸前」で行われているから暴発も阿鼻叫喚もなく行われている、という考えがある。
官邸が出来てからしばらくして閉館になってしまったが、あの官邸の隣にはキャピトル東急という、もともとはヒルトンが開業したホテルがあって、わしは何度か泊まったことがある。

わしは旅先でもなんでも酔っ払うとメンドクサイので、酔っ払った町のホテルでテキトーに泊まる、というえーかげんな性格まるだしの癖があるが、赤坂にはおいしいギネスを出すバーがあって、一杯2000円だかなんだかのそのギネスは、ただのギネスなのだから、そんなにオカネをだしたくはないが、そのバーテンがいれるとなぜかおいしいので、意志が弱くなると、ついふらふらと、そのバーへ足が向かった。
想像すればわかるが、日本にいるときというのは、家をもっていたとはいっても、わしにとっては「旅先」にいることであって、そういう用件のない旅先でギネスを5杯くらいも飲めば、すっかり良い気持ちで、ニューオータニのホテルのてっぺんのバーでも酔っ払って、そのうちには意気投合という陳腐な言葉がぴったりの気持ちになったシドニー生まれの、なんだかものすごくマジメなストリッパーのねーちんと、ふたりで朝まで飲み狂ったりしたよーである。

キャピトルホテルは、そーゆーときに泊まるホテルで、あのホテルは裏に日枝神社が続いてもいて、夏などはなかなか良い場所だが、そのときに見覚えた地形から言うと、人がたくさん集まってデモをするには極端に不利な地形である。
見てないからわからないが、一万人も集まれば、延々長蛇の列になって、戦火を逃れて道路に展延する難民の行列(すみません)みたいに見えたはずである。

むかしはのっぺらぼうの顔の狢が出たという紀尾井坂には清水谷公園という小さな小さな公園があるが、せめて、あのくらいの核になるスペースがないとデモには暴発的なエネルギーは生まれない。

それが良かったのではないか、というのが説の根拠で、出典が気になって仕方がない出典ヘンタイのひとびとのために言うと、説をなしているのは、わしである(^^)

1992年のロスアンジェルス暴動は、このあいだ死んだロドニー・キングへの警官の無罪評決がきっかけということになっていて、それは実際にそうなのだろうが、ガキわしが見聞した範囲では、それは「韓国系アメリカ人対アフリカン・アメリカン」の緊張が生んだ暴動と意識されていた。
ロスアンジェルスのあの辺りでは「ノー・ニガー」と張り紙を出していた店もあったとかで、アフリカン・アメリカンには韓国系人たちへの憎悪をあからさまにする人が多かった。

屋上に銃列を敷いてアフリカンアメリカンたちに対峙する韓国系人たちの有名な写真
http://commonamericanjournal.com/?attachment_id=45932
があるが、もう掠れてしまって、ほんとうかどうか判らなくなっている記憶のなかには橋の上に並んで、射撃する韓国系人たちの姿がある。

あるいはyoutubeを覗けばいくらでもあがっている、最近の暴動の動画を見ても、
http://www.youtube.com/watch?v=NljVxqRpbw0

群衆の怒りが「爆発」すると、だいたいどういう感じになるかは、手がかりくらいはつかめるだろう。

ツイッタでジャンミンという、いろいろなオモシロイものを教えてくれるので、わしがフォローしている人が渡邉正裕というジャーナリストの「日本でデモっていうと、署名活動と同じくらいの意味なんだよね。アラブとかの革命が前提のデモとは全く別モノ。既存の法律を守っていたら何も変わるわけないじゃないか。既存の体制が自分の都合のいいように作った法律なんだから。みんなきれいに洗脳されてる。」
「「管理されたデモ」は既にデモではない。その本質的な意味合いから、存在しないもの。警察に管理されたデモ=「○○○」と同じ。」
というような、官邸前のデモは「ニセモノ」で、あんなものは「予定調和なガス抜きのお祭りなわけで、お上意識が根っこまで染みついてる」
と述べていて、微笑とともに読んだが、
このひとが「ほんとうのデモ」と言っているものは英語ではriot、暴動と呼ぶ。
既存の法律に従っていては何も変わらないのだから、ダメであるというが、しかし、それはこのひとが「既存の法律」あるいは「既存の体制」に人々が実効性をもって正面から立ち向かったときに国家というものがいかに怖ろしい牙を向いて、というよりも効率的な暴力機械になって、どこまでも血の通った人間でしかいられない「民衆」を肉体の外側と魂の内側から、いかにずたずたにするかへの想像力をもたないから、暢気に「あんなデモじゃダメだよ」とチョーノーテンキなことを言う。

日本の社会を見ていて顕著なのは、ちゅうか、ぶっくらこくのは、このジャーナリスト人のように、「国家の暴力」というものへの想像力を根本から欠いている人が多いことで、国家の「暴力発動」スイッチを押してしまえば民衆などは、ひとことを述べる以前に無惨に踏み潰されるだろう。
天安門を見て「あれは中国だから」と考えるひとは、よほど暢気な民族差別主義者なので、鄧小平は糊塗するのがメンドクサクもあれば、胡耀邦の息がかかった人間たちにむかっ腹を立ててもいたので、いっちょうナマの姿で国家というこの世で最大の暴力装置の力の片鱗を見せてやれ、と思っただけである。

日本の政府が、官邸前に集まった人間を2、300人ぶち殺したところで、しばらくは非難されるが、特に「日本」という国に痛痒以上のものを与えないのは、天安門事件のあとの中国の興隆ぶりを見れば簡単に納得がいく。「西洋人たちがきっと送りこんできてくれる」はずの「自由の女神」などは、どこにも姿はなく、その代わりに勇敢に戦った中国人たちが見たものは、
ほとぼりが冷めた頃に商談にやってくるフォルクスワーゲンであり、BMWやトヨタの社長たちだった。

わしはジャンミンの手に導かれて、通り雨のように読んで、渡邉正裕というひとの言う事を、へえ、と思って好意的に眺めたが、デモの箇所は、正義漢の小学生がリングの上のプロレスラーに「だって、あんたたちがやっているのは八百長じゃないか!」と叫んでいるのを見ているようで微笑ましく感じた。

実際には、西洋のどんな社会でもデモは平和裡に行うことになっているのは、言うまでもない。「黙っていられない」から通りに出ていくので、デモというのは社会のためというよりも自分のために参加するものなのである。
それに実効的な社会変化の力を加えようとして石や火炎瓶を投げ、自動車をひっくり返して派手に暴れる人間も出てくることがあるが、そうなった時点で、国家はこれを「暴徒」として仮借なく押さえ込みにかかる。
それでもなお法律外の運動力に訴えようとすると、正体の片鱗をみせるに至ることすらある。

国家の正体、というのは憲法なわけではなくて、どんな国家も同じで「絶対暴力」である。これが国家のすべての権威、光輝、やさしさ、その他考え得る限りの国家のもちうるすべての特性の源泉であって、「絶対暴力」を本質としない国家はこの世界には存在しない。

しかも国家がほんとうにやる気を出してしまえば、国民などはひとりひとりでも束になっても、十分組織化されていてすら「ぐうの音」も出ない。
たとえば、「そうなったら日本から逃げる」という幸せなひとがあるが、そういう事態になって国民をおめおめと海外に逃亡させる国家など、あると思うほうが頭がどうかしている。

そーかなー、と頬をふくらませて考える人は、暴動の先にある「革命」というものが
、どういう状態の国家で、どのくらいの成功率をもったか歴史を振り返って考えてみるのも良いかもしれない。

カール・マルクスが考えた革命は、もともと理屈の上ではイングランドでしか起こるはずのないものだった。
しかし現実にマルクス式の革命が発生したのは、政府と呼ぶのが憚られるようなヨレヨレでふらふらの、「なんでこんなボロイ政府がまだ立ってるんだ?」と訝られるようなチョービンボ国あるいは骨董品国家ばかりであって、断末魔に苦しんでいる政府に最期の毒の一滴を盛るに近い役割しか革命には与えられなかった。

もっと大規模で有名な革命に少し話を移しても、フランス革命は徹頭徹尾無惨な失敗の物語であって、理想と思想、もっと言えばありとあらゆる観念が、現実の社会と国家にとっていかに有害であるかの見本市のようなものにしかすぎなかった。

わしは大規模な革命のゆいいつの成功例はアメリカの独立革命であると思うが、なぜこれが成功したかの説明は、ここでホイホイと書けるような性質のものではなさそーである。

わしは正直に言って、なぜ官邸前の役に立たないデモが大逆事件以来、あんまり良くできてもいなかった見せかけの「自由社会」の意匠はべつにして、徹底的に根こそぎにされてきた日本の民主主義の復活の兆しであることを疑うひとがいるのか、理解できない。
なんで、そんなものに違法性や暴力性、もっと言ってしまえば実効性が必要なのか、さっぱり判らない。
それとこれとは、関係のない話に決まってるでないの、と思う。

官邸前のデモのことを考えたり、日本語とかは、やっぱし、もういい加減にすべきだろーか、と考えながらブッシュミルを飲んでいたら、帰りにバーに財布を置き忘れた。
外に出て、5、6歩あるいて、あっ、いっけねー、と気が付いてバーに戻ったら、もう盗まれたあとであった。
その間、約1分。

なかにはクレジットカードや免許証やEFPOSがてんこ盛りになってはいっていて、そういうIDを悪用されると妹が「はっはっは、うつけものめ。おにーちゃんって、やっぱり、ほんもののマヌケなのねえー」とゆって大喜びしてしまうので、やむをえず警察に寄って盗難届を出した。
で、現金もはいっていましたか、と訊くので、
「6000ドルとちょっと、はいってました」というと、
顔をしかめて、なんで、そんなに入っていたんですか?という。
わしは、愚か者め、と考える。
「そういうことは、きみとは関係がないことだろう。大きなお世話だぜ。自分の仕事をちゃんとやれよ、バカめ」と、やや言い方がきびしくなってしまった。
免許証は5日くらいで紛失証明が出せる。
当座は紛失届けとして処理されて、誰かがクレジットカードを使おうとしたところで盗難届けに切り替わります、とたいして関心もなさそうに担当官が言う。

警察を出て家にもどってから、わしは、「日本ではああいうときに、警官に、バカ、とかゆえないのかもしれないな」とちょっとだけ考えて、考えたとたんに自分達を阻止するために隊列をつくる日本の警官たちにまで「自分達はあなたたちを個人として憎んでいるわけではないのだ」と意思表示しないではいられない日本のひとたちのことを思って、ちょっと涙ぐんだ。

いいじゃない、デモで政府が転覆しなくたって。
そうやって、あのジャーナリストのように、賢い、ものが見えるひとは、ひとり、またひとりと、立ち去っていけばよい。
そうやって少しでも計算が立つ「言の賢い人」が頭をふりながら、離れていって、
最後に残るのは、自分の顔がテレビに出てしまったら隣近所のひとはどう思うか、とくよくよ思い詰めている主婦や、上司がおれの姿をみつけたらやべーよなあー、と翼々とする臆病なうだつのあがらないサラリーマンのおっさんの「烏合の衆」だろう。

それが賢いひとびとにとっての夢の終わりであり、
愚者の群にとっての希望のはじまりである。

そして、そういう愚かな者たちの臆病な思いだけが、いつまでも「政府」という、絶対暴力の奴隷である怪物を歴史の終わりまで怯えさせてひきずっていくのだと思います。

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ケ・テ・パサ

ビーフシチューを食べた。
前にも書いたがビーフシチューは日本では高級な食べ物みたいな顔をして一流レストランのメニューの良いところに座っているが、ほんとうはそーゆー食べ物ではないのね。
もっと「家族」のにおいのする食べ物です。
自分のことに照らして考えると、このあいだビーフシチューを食べたのは、かーちゃんやとーちゃん、及び妹と湖のほとりにキャンプに出かけたときのことで、多分、10年くらい前のことである。

「オランダ人のオーブン」とか「フランス人のオーブン」と名前のついた、日本の「鍋物」をつくる肉厚の鉄鍋に似た鍋
http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_oven
で、チャックステーキを、ぐつぐつ煮てつくるのもおいしいに決まっているが、わしが生まれた国では普通はオーブンで焼いてつくる料理です。
4時間くらいオーブンにいれておくと、自分で勝手においしくなる。

冬なので、モニとふたりで、会ったばかりの頃にモニに平手打ちされたことやなんかを話してクスクス笑いながらつくった。
料理のおばちゃんやおじちゃんたちはオークランドの南東にある温泉に遊びに行っているので丁度よかった。

「小さなひと」の面倒をみるひとや、掃除のひと、そーゆーいろいろなひとにうまく働いてもらうように家宰するひと、といろいろなひとが増えてモニとわしの暮らしは会社みたいだ、とわしはときどき機嫌が悪くなる。
モニとふたりだけのときのほうがずっとよかった。
好き勝手をゆってむくれているわしをモニさんは大体ニコニコしながら見ているだけである。
ときどき、ガメは、ほんとうに子供みたいだ、と言う。

ギネスをたっぷりいれたシチューは、この世のものとも思えないくらいおいしくて、
モニとふたりでニコニコしながら食べた。

そうやっている間にも欧州は嵐を前にして身構えていて、富裕な中国人たちは自分達自身の過熱した市場に怯えてアメリカやオーストラリアで不動産を買い漁っている。

日本人たちは戦っている。
日本の歴史が始まって以来初めて、日本人たちは懸命に自分たちのために戦っている。
丁度放射線防護服のようにおおげさで非人間的な理論に身を固めた政府や科学者や無限に現れる「賢いひとびと」に嘲笑されながら、自分達のなけなしの生存への本能だけを頼りに戦っている。
自分のために、旦那さんのために、子供たちのために。

モニが、そっと人差し指を唇にあてる。
いまは悲しい話はやめましょう、という。
悲しい話をすると悪魔たちが耳を澄ましていて、集まってくる。

もちろん、モニもわしも、もうなにもかも知っている。
すっかり判っている。
これからモニとわしと「小さな人」が生きていかねばならない世界は、ろくでもない世界で、犬が犬を食べ、人間が人間の脂をしぼって灯をともす世界になってゆくに違いない。

人間は自由を信奉することによって弱肉強食の世界に時計をまきもどしてしまった。

ときどきわしは考えるが、「自由」はそれほど大事なものだったろうか。
前に同じことを日本語で書いたときに「欧州的教養」が売り物の小説家がやってきて、「自由の価値に疑いをもつ、おまえはナチだ」というようなことを言いに来たことがあったが、あのひとは、わしらにとっては「自由」は言わば自分自身のようなもので、捨てられもせず再検討することも出来ず、サラミスやテルモピレーのむかしから、ただ盲目的に、というよりは自分の思想的肉体として疑いもせずに自分自身だと信じてきたものであるという感覚が、あのひとには判らなかった。
あのひとには「自由」という観念を対象化する能力がわしらには欠けていることを知らなかった。
欧州の苦しみがそこにこそあることに気が付こうともしなかった。

自由はそれほど大事なものだったろうか。
わしの友達は、いつか酔っ払って、飢えて死んでゆくアフリカの子供を足の下に踏みつけて凱歌を挙げる「自由の女神」を描いて送ってきたが、われわれの自由にはそれ以上の意味があっただろうか。

日本語の世界は「賢いひとびと」で充満しているので、こんなことを書けば鼻で笑うひとたちが何千人もいるに決まっているが、わしには、もう「賢さ」や「知恵」など、どうでもいい。

自由はそれほど大事なものだったろうか。
人間が人間であることには、それほどの価値があっただろうか。

いったい、私が私であることには、どれだけの価値があるのか?
あなたがあなたであることには、どれほどの正当性があるだろうか?

言語の挑戦的な太陽が頭上に輝く午後がまた待っているのだろうと思います。

10/June/2012

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